2024年8月14日水曜日

新しい生活と、少しずつの、、、変化

ご無沙汰しておりました。
昨年結婚して、少しだけ以前と変わった生活になり。 変わったことよりも変われていないことの方が多いけれども、 本当に、少しずつ、少しずつだけど変われていることもあるようです。

 こうして誰かに手紙を書くように文章を書く方が性に合っていることも、 既にずいぶん前に気づいていたのに、今更、ああ、そうだった、と改めて実感していて。 
今後は、このお手紙方式で行くことが増えるかもしれません。

そういえば、とある作家の人が姉妹で送りあっていた公開書簡も、割に好きだったことを思い出します。 

そして、今までずっとできずにきたけれど、いつか向き合わなければいけないだろう・・・ 考え方や価値観の違う人との付き合いについて、今日は少し書いてみたいと思います。 

 赤の他人ならまだ許容できても、問題なのは身近な人や友人・知人にそういう人がいること。 これは、個人的にかなりキツイです。言葉に出すのさえも。そして心がズキズキと痛みます。

 だから基本的に他人に話すこともできずここで書くこともできず、長年自分の心の中にしまってきました。 でもパートナーと再会して色々衝突もしながら色んな話をする中で、カタツムリのような歩みで、ようやく書ける所まできたのかなと思います。

 当方は、基本的なスタンスとしては、持続可能な社会作りに関心があり、 核兵器は勿論のこと、軍隊を持つことに懐疑的で、原発もなくなってほしいと思っている立場。
 そして資本主義も色々問題があると感じていて、そうではないオルタナティブな経済のあり方を求めている側面もあるので まあ、一般的な「普通」の日本人からしたら、絵に描いたような日本版リベラルという所か。

  だけど実際は普通に会社員として働いているし、ここ10年位は色々な人の意見とかも聞いてきて、 いわゆるリベラル派の一部が起こしている問題も色々目にする中で、今は社会活動からは基本距離を置いているしほぼ何もしていない。

 結婚してそんな時間も取りづらくなった、あとはパートナーのスタンスが自分と違う事で喧々諤々な話をする中で(パートナーは消耗するようだが) 自分の考えが正しいとも限らないこともあるのかも、とも思うようになったこともある。

 よくも悪くも、多面的な意見を聞くことで、明確な答えを出さないようになった、 そして行動しなくなった、というのが今の状況である。 

 だが、ベースの考えが変わった訳ではないし、 人と接する時は過去の傷だったり、割り切れないものを色々想起することが多々ある。 

 例えばアメリカ人と結婚して日本に宣教師一家として派遣されてきていて、 うちの教会にもしばらく滞在していたファミリーの奥さん。 以前は比較的仲が良くて、色々な相談に乗ってもらったり、お茶したりする位の仲で色々気にかけて頂いていた。 社会問題に私が関心がある事にも理解を示して下さるような方だった。
拠点を移してからも連絡を取り合い、ビデオ通話や向こうの交流会に顔を出したりもした。

 だけど彼らは地元の米軍基地に勤めているアメリカ人とも交流を深めていて、それを国際交流の一環としても活用しているようだった。 それを知った私は現場で働いている人たちの考えが知りたくて、行っていたところもあった。 だが当人たちは基本英語しか話せなく、個人的に話をする機会があった際も、沖縄の基地に関する意見を聞く事はできなかった。

ある時、メールで奥さんの方に沖縄の基地問題についてどう思うか考えをぶつけてみた所、強烈に反論された。彼女にしてはすごく珍しいことだった。 彼女からしたらそのような政治的な意味合いで米軍従事者に近づいてほしくなかったらしい。 また彼女はこうも言った。
軍事の事は神さまの領域だ、私たちが入り込んで何かする領域ではない、と。

それと、彼らが抱えている精神的なストレスは相当なもので、彼らをサポートしているメンターのクリスチャンから 度々話を聞いているらしく、そういう現状も知っているのか、とも言われた。

 だが、私からすれば、長年沖縄の人達がおかれている立場の方が余程酷く重いものと感じているので、当時かなりの憤りを覚えたが、すぐに反論はできなかった。
 残念ながら、あの時のメールのやり取りは中々に貴重だったのに、当時のメールの記録はすべて消えてしまっていて読み返すことはできない。

 それから何年か経って教会の集まりで再会した時、涙ながらに彼女から謝られた。 
ただ、それは私に対してではなく、沖縄の人に対して謝ってほしいと思ったし、 私も私で、配慮が足らないことをして悪いことをしたな、、、とも思いつつ、あれが彼女の本音なんだろうな、とも思った。 

そしてその謝罪の場では関係性が修復できたかにも見えたが、あの事件以来、未だに彼女から私に個別に連絡が来ることはない。

 きっと「ヨソモノ」でしかない私はお呼びではないという事なのだろう。 
自衛隊員との触れ合い事業みたいのに抵抗感があるのと同じく、 米軍従事者の人達と日本人との交流の機会を提供することについて、個人的には疑問を持ち続けてはいる。

 もう1つはデンマークに一緒に行ってお世話になった子が、自衛隊員と結婚したこと。 
これは個人的にかなりショックだった。 今日本が憲法9条の理念など綺麗さっぱり捨てて、軍備増強に向かい続けている中、 その一端を担っている立場の人と結婚するのが信じられなかった。 

しかも多少なりとも思想や考え方が近いと感じていただけに、結婚報告があった時も お祝いの言葉もかけられず、いいねも出来なかった。
付き合っていると聞いた時も、何も言葉を発することができなかった位なのだ。
勿論、自衛隊員も自国の平和を守る為にいるのであり、一人一人は真面目に取り組んでいる人が沢山いるのも理解しているつもりだが、、、軍隊は本当に難しい職業だと思う。
彼女の幸せは私も願っているし、知り合い程度で何かを口出しする立場にないので、これ以上どうすることもできない。かといって素直に祝福する気持ちにはなれなかった、というのが正直な所で今もそのままだ。

 そして、私が学生時代お世話になったホストファミリー。 ずっと、元気にしているかなあ、と心の片隅で思い出しながらも、帰国後すぐに連絡せず3か月後にようやく写真と手紙を送るが 反応がなく、嫌われたと思ってそのままになっていた、ホストファミリー。 

アメリカ人の友人からの後押しもあり何十年かぶりにメールを送ってみたものの、宛先不明で戻ってきて、でも友人に探してもらって 消息を知ることができた。 ようやくFacebookでそのアカウントにたどり着くことができたけれど、 友達になっている人の中に明らかなイスラエル支持者がいてショックを受ける。 そんな考えの人と友人の人達に連絡を取ることがためらわれた。 ずっと恐れていたことは彼らがトランプ支持者だったらどうしよう、という事だったが、それを超えてきた気がして。

だが、必ずしもそのホストファミリー自身がイスラエルを支持しているという保証はないし それはそれ、これはこれ、と割り切って、連絡すれば良い、と同じクリスチャンの母は言ってくれた。 が、やはり怖い、というのが正直なところだ。

今の私の人生の課題は、不器用さといかに付き合うかという事と、
この人との向き合い方の所にあることは他ならない、大事な課題だ。

センスとかいうこの不可思議なもの

 昔から、美しいものとか綺麗なものとか楽しいものが好きだけど、

モノ選びとか、インテリアとか服装選びとかがものすっご下手で、いつも買い物に失敗する。そしていつもワンパターン。

買い物で色々悩むのは嫌いじゃないが、結局どれ選んだらいいか、あと買ってもその後、どういう風に配置したりアレンジしていいかが分からなくて。

絵を描くのも好きなのだけど、創造性がかけているため、うわこれいい!!っていうやつを、ただただ、摸倣する事しかできない。

当方、ファッション雑誌とかインテリアとか見て、こういうスタイルが好み!好き!ってのは、ちゃんと持っている。持っているけど、見たままを、そのままを、真似しか(文字通りの”摸倣”で同じもの買うとかしか)できないんですよ。

元々はクリエイティブな才って奴にすごい憧れがあるんよね。

色々総合するに、表現することがどうも好きらしい。今も昔も朗読や演劇は好きだ。でも演劇は自分ではやりすぎ感があってやろうとまでは思わないけど。だから朗読が単純に好きかも。ラジオDJとかでだべってんのに憧れるんだよなー。今も。

あと写生なんかも、やっぱりセンスなんよなーとか思って。小学生の時に写生してて多少褒められはしたけど丁寧に書いてるからだけであって、センスある人の写生ってのを見るとこれと同じ真似は出来ねえ、、と絶望したものだった。

なんだろ書き出し方が違うっていうのかな、どういう風な流れと手順で書いていくとああなるの?ってのにすごい興味が惹かれるけど、結局同じ事は出来ない、みたいな。まあちゃんと専門の勉強すれば多少は出来るようになるのかもしれないが。。。

あと文章書くのも、やっぱりさ才能だと思うよ。勿論努力も必要だろうけど。ずいぶん昔ネットサーフィンしててたまたま見かけたあるブログの人は、あーこの人は人を惹きつける文章を書く人だなって思ってすごくレベルの差を見せ付けられた事があった。あの時、自分は物書きの才能がないと自覚したので、小説家みたいなものを目指す事はあっさり諦めた。だって何を書くのはよくて何を書くのがまずいのかの区別つかないしさ。このブログが正にそれを体現している。

写真取るのも昔は好きだったけど、他人とのレベルの差を見せ付けられるにつけ、まあ、自分がやってもねえ、って気になるし(なんか撮っている自分が好き、みたいなのないっすか?)

スマホで写真撮るのが手軽になった分、そこまでやらんでもいいかな、という気になったりで。インスタみたいな洒落たもんはやらん(新しいものを取り入れるのが苦手)なので、ついったーで何人かセンスある人フォローして、素敵なのは写真保存して真似ようと思ってる。

まあ、凝ったことができない性分なんでね。

この間、すごくモヤモヤした話なんだけど。

私は昔からセンスのある生活にすっごく憧れているんだけどさ、そういう能力が一向に伸びなくてそういうのに真剣に悩んでるのに、

とあるツイッタラーが、このセンスは先天的な才能じゃなくて努力して見に付けたんで、人の努力して勝ち取ったものを気安くタダで教えてみたいなのってどうなん、

みたいな発言しててさ。

確かに気安く教えては配慮の問題として正論かもしれないけど、すごくモヤモヤした。

だって、自分自身、インテリアの本とかファッションの本とかそれなりに読み込んできた人間だけど、一向にセンス向上してないんですよね。努力して未だ前進する見込みが全く見えない人間にしたら、正直、「は?結局センスは才能だよ、俺のアップデートされないぐちゃぐちゃの部屋みろや」と思っちまうわけ。

というか、これすごい可愛いとかストライクってのは感覚であって、それは分かるけど、それを自分なりにアレンジしてとか部分的に取り入れるとか、そういうのができないんだよね。

だからさ、インテリアとか服とかモノ選びとか、コスメでも何でもさ、何をどう学んだらそのセンス身につけられますかね?そう、お金かける所とかけない所のバランスなんかも含めて、だよ。

それが知りたいんだよ。どうしたら月1万で素敵な食事を効率よく作れるのさ?

恋人と行くおでかけ先のセンスとか、プレゼントのセンスとかさ、どうやって身に着けるん???

どうしてさ、センスある奴は恋人と一緒に暮らす部屋を二人で素敵に作り上げたりできるんだよ。

私だってそうしたいんだけど???

って怒りをどこにもぶつけようがないから、ここで吐き出す。

まじで、センスって奴がなくて泣けるわ。素材は悪くないらしいのにさ。。。あーあ。。

すげー自分で持って生まれたものを無駄にして過ごしている気がするよ。

もういい年なのに、なんでこんなに、成長しないんだろう。

あと、好きな曲でめっさ踊りたいけど、振り付けも覚えらんねーしもう色々な。

だからせめて、好きな曲で癒されよう・・・あと曲のセレクトが素晴らしいって認めてもらえたらいいな。面白い人だって思われたい。

せめてその位は。だって今更海外移住もできないって先が見えてる。

でもせめて、センスある暮らしがしたいんだ。

だから、神様、私にセンスを下さい。

そして、最後に叫んでみようじゃないか。

センスオブワンダー!

結局のところ色んな可能性があったのに、何一つものにできないでいる自分に、いらつくのかもしれないね。

そういうチャンスをモノにできる人とそうでない人ってのもやっぱり才能なんじゃないだろうか。人生は選択の連続な訳だけど、その選択で間違い続けている気がする。


2021年8月28日土曜日

あの時、なぜ私は。。

少し前に話題になっていたけれど見れていなかった、

「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記(映画ver.)」を見てきた。

最初の入りから、あれ、と思った。菜の花さんがバイトしていた料理店。。

引き取る会のスタディツアーの時にウシさんに連れて行ってもらったあのお店によく似ていた。那覇市で沖縄の懐石料理屋といえば、そんなに数は多くないし、多分そうなのだろう。

菜の花さんの顔立ちは、正面から見るとそんなでもないけど、後ろから見た時の形が私と似ているなあ、と思って見ていた。

彼女の真面目で誠実な人柄、繊細さやセンスは私とは全然違うだろうけれど、彼女の歩んできた道のりや考え方のベースにあるものは、多分私と似ている所があると感じた。

珊瑚舎スコーレは、正に日本の(というよりも沖縄の)フォルケホイスコーレと呼ぶにふさわしいものだし、私の人生がもし、もう一度やり直せるのなら、私は彼女のような経験がしたかった。

意外だった事は、菜の花さんが沖縄にいた3年間でずっと問い続けていたものに対する、答えだった。映画を通して、日本人の沖縄に対する無意識の差別について、菜の花さん自身の言葉から度々感じ取ることができるのだが、パンフレットの冒頭に書かれていた、菜の花さんからのメッセージに、端的に極めてストレートにその事が書いてあった。

「自分は誰なのか。どれが正しいことなのか。沖縄で生活すればするほど揺らいでいった。わかっていたはずのことが、どんどんわからなくなっていった。しばらくの間私は、沖縄に行って沖縄で起こっている問題を解決したい、何か力になりたい、と思っていた。だけど、それは間違っていた。なぜ変わらない?なぜ無視される?なぜ、なぜ、そう問うていたら、自分にぶつかった。私は誰だ。」

彼女は、スコーレで沖縄の文化や言葉を学びながら、沖縄戦の歴史を本ではなく実際に経験した人と共に学び、直接話を聞き、高江や辺野古で出会った人達、、それは条件付き賛成派の人も含めてだ、、から話を聞いた。そして、それと同時進行で、沖縄で今も毎日起きている現実を、目の前で何度も突きつけられる経験をした。それは本土にいると見えにくい現実が目の前で日々起きているという事実だった。

沖縄と合わせて、もう一つの大きな伏線として描かれる重要なものがある。

それは、彼女の出身地である石川県にも、かつて米軍の施設があったという事。その土地の名前を聞いて、私は思わず声をあげそうになった。

内灘。そう、戦後の日本で、かつて米軍基地闘争に火をつけるきっかけとなった、あの内灘闘争があった場所は石川県なのだ。私は、菜の花さんが沖縄に来る事になったのには、何か運命付けられたものがあるようにも感じられた。

そして、内灘闘争にかつて関わった人達からも、彼女は話を聞いた。

内灘闘争での合言葉は「金は一年、土地は万年」という言葉だった。

内灘闘争でたたかった人達も、沖縄で声をあげ座り込んでいる人達も、特に猟師さんの思いは、、皆同じだ。この海をこの土地を返してほしい、と。安心して暮らせる環境を返してほしいと。

ただ、それだけなのに。

そして彼女は本土から無くなった米軍基地が、本土復帰まもなくの沖縄に移転されていった事も知る。

その中で彼女は葛藤し、そして答えを見つける。

「私は誰なのか、ようやくわかった。自分が嫌なものを他人に押し付け続けている一人だった。」

問題の根源は沖縄にはなかった、と彼女は気付いたのだ。

そう、自分自身の中にあったという事に。

引き取る会の考えも、菜の花さんの考えも、自分の中にある差別と向き合う、という根っこは同じだと思った。

でも、彼女は沖縄の基地を本土に引き取る、という活動を知っているだろうか。

知っていたとして、彼女はこれについてどう思うだろうか。と気になった。

映画を見終わった後、会場で偶然知人と会い、引き取る会の活動の話をしてみたが、あまり理解されていないようだった。。んー、映画で何を感じたのだろうか。。

日本政府の酷さに共感しただけ?

と思ってしまった。

そして同時に、私も自分を、自分の足元を変えなければいけないという事は分かっていて、それが出来ていないことを改めて思った。

それと、彼女の生き方に私は憧れるが、彼女の真似は到底出来ないという事も。

だって、スコーレで彼女は同級生と普通に接している、私にはそれが出来ない。

街頭で県民投票の手伝いで声かけしていたような事が到底無理。私はどうしたって、人との間に分かり合えない、通じ合えない、壁があるのだ。

そして他の人に感じられることが、理解できることが、私には感じられないし理解できない。海外に行った時も、全部そうだった。

私はずっと、ずっと、永遠にそうなのかもしれない。。。通じ合えないと変えられないのに。。。

でも、前みたいにもういちいち悲しんでいるのは時間の無駄だよね。

時間は有限、いつまで生きていられるかも分からないのだし。

とは思っても、結局の所、リスクを負った行動ができずにいる自分が、心底情けなくもなる。本当はこんな文章書いてないでやるべきことが、沢山あるはずなのだけれど。

映画を見て、菜の花さんが丁度沖縄にいた頃、時を同じくして、私もずっと沖縄の事を追い続けていた事を思い出していた。改めて映画を見る中で、これだけの事が沖縄で起きていた事に改めて驚きを禁じえなかった。そしてその度に「本土」の人間から発せられる冷たい、そして醜い言葉の数々を思った、、政治家が堂々と沖縄を差別しているのに、国民が差別しないわけがない。。。と思った。

そして、2016年に米軍属による女性殺害事件が起きた時の、玉城愛さんの姿を見て、あのスピーチを思い出していた。「日本本土にお住まいのみなさん、、第二の加害者はあなたたちです。しっかり沖縄と向き合って頂けませんか。」この事があり、そして、その後に、国と県の裁判で沖縄県が敗訴したことを受けて、私のスイッチが切り替わったのだ。

あの時、なぜ私は、引き取り運動に関わろうと動いたのか。その決定打は2016年に起きたこの2つのことが大きかったと思った。

憲法9条を世界遺産に、に感動して単純明快にそう考えてきた私だけれど。

映画の最後に、菜の花さんがスコーレのみんなと歌いだした曲にも、え?となった。

コシシケレリ・アフリカだ。

そう、農村塾で教えてもらった大切な曲。

人種差別に対してアフリカの人達が声をあげたときに歌った歌だ。

アフリカを、彼女は沖縄に、置き換えて歌った。

「神よ、沖縄に祝福を。」と。

私もいつか、彼女のようになれるのだろうか。失った時間は取り戻せないけれど。。。

旅して暮らしたいなんていいながら、沖縄への責任を果たせるだろうか。。。

翁長さんの姿につい涙がこぼれる。


2021年6月13日日曜日

デンマークよ、お前もか。

 最近、EUの中でかなりの騒ぎになっているという、デンマークが、アメリカの情報機関にEU諸国の情報を長年に渡って横流ししていたって話。

正直、日本国内で酷い事多すぎて、色んな事に感覚が麻痺しているので、目にした時、感情が殆ど動かなかったというのが本音。

だけど、あー。。。デンマークよ、お前もかっていう感想でした。

で行き着く所は、神様がいないと、どこも腐るのかな、って事で。

しかしながら、神様がいた所で、軍隊や銃を堂々と保持している国も少なくなく、まあ、完璧はないんだなーって事ですけど。そもそもちゃんとした信仰がないと意味ない訳で。

結局の所、人間のやる事はつくづくも、下らない、としか思えないのでした。

命の選別、建前ではいえなくても、結局行われているものね。

勿論それはやりたくてやっている訳じゃなくて、そうせざるを得ない現場の苦しみも、わかってはいるつもりで。でもそれを簡単に仕方ないと切って捨てる人間の思考は私には理解できない。

それも神様の思し召しと思って割り切るしか、道はないのだろうけど。


2020年12月19日土曜日

なぜ「全ての政府は嘘をつく」のか、そしてなぜ人は嘘をつくのか

 昔から割とドキュメンタリー映画が好きなのだが、(ドキュメンタリーとジブリしか好きじゃないともいえる)、最近気になっていたタイトルの映画。

「全ての政府は嘘をつく」

まあ、内容は大体想像がつくし、こういうのが好きなタイプの人間が食いつきそうなタイトルだなー、よく考えられているね、と穿った見方もしたりして。

華氏9.11とか、六ヶ所村ラプソディーとかそういうの見てた辺りから、政府なんて信用ならん存在だ、というのは嫌という程感じてきましたのでね。

まあ、極めつけは沖縄の米軍基地の存在ですわ。ほんまに驚きますわな、米軍の建前と本音の違いには。それを支えているアメリカ政府と日本政府にもね。あと日本の入管施設も本当に酷いです。こういうのを見るにつけ、政府って碌なものじゃないなと思ってしまいます。

で、ここに来て思う事なのだけれども、政府ってのは往々にして色々と隠したがるものなんですけど、それって、なんでなんだろうなあ?とふと疑問に思いました。

で、このお題目が思い浮かんだとき、なんか色々面白く思考できそうだなあ、なんて思っていたのでいつかこのタイトルで文章書いてみたいと思って。で、それでまた半年位経ったと。

ところで、このなぜ全ての政府は嘘をつくのか、って事は、別にふかーい考察なんてなくっても、ごくシンプルに答えが出るんですよね。

「なぜ全ての政府は”嘘をつかなければ”ならないのか?」と考えると単純な事なんですよ。

それはつまり、政府を動かすのも、その国に存在している存在も、人間だから、なんですね。

そもそも、人間という存在は嘘をつく生き物なんですわ。不都合な事には目をつぶって生きて生きたいし、自分達の信じたいように信じたい生き物なんですわ。そして人と比べてはマウントを取り保身に走る。

だから、政府も「同じように嘘をつく」。

逆に、ある程度の嘘をつかないと国内もだし、諸外国との付き合いも中々成立しない現実という所か。まあ、ある意味当たり前の論理ですよね。

で、この思考はおしまい。ってなっちゃうとつまらないので、もう少し考えてみる。

では、なぜ人は嘘をつくんでしょう。不都合な事には目をつぶって生きて生きたいのでしょう。そもそも、自分にとって不都合な事とは一体なんでしょうか。

中国とかロシアなんかはアメリカ以上に酷い情報鎖国だし、人権弾圧もろにやってる国な訳ですけど、そもそもそういう国の政府ってのはどうしてわざわざそういう事するんでしょうね?

鍵になるのは、やはり「人を信用しているかしていないか」って所ですかね。

信用していないと罰則や規制で徹底的にコントロールして痛めつける。情報を公開してオープンにする動きと逆の事をやろうとする。まあ、ルールがないと無秩序状態になるのもその通りなんで、ある程度のルールは必要な訳だけど。ルールありき、聖書で言う律法ありきになるとガチガチして息苦しくて窒息しちゃいますわな。激混み電車で動けないアレと一緒、あの電車に乗ってて、よく発狂しないよね。。だから、日本は息苦しい国だ、ってよく言われる訳ですけれども。日本も本質的にロシアや中国と似たようなものだって理解できている人、少ないですね。

で、話を戻すと、誰を信用していないか?って所の度合いの問題かもしれないけど、アメリカも結構今は監視社会だし信用してない度合いが増しているけど、それでも時間経ったら機密文書公開してくれるしね、多少ですけど。

まあ、中国とかロシアってのは基本的には人を全体的に信用していない国なんだろうなと。

あと、国の単位が大きすぎると、自由にやらせすぎると収拾つかないから。

かなと思っている。だから、昔から個人的に思うのは、大きな国は駄目になる、世界全体が小国であるべき、ってのが私の持論です。人が多すぎるとまとまるものもまとまらんし、零れ落ちる人が増えるし、強力なパワーコントロールが働かないと国がまとまらないジレンマに陥る。中国やロシア、見てれば分かるよね。

かといって、小さければいいかというと北朝鮮みたいなトリッキーな国もあり。

でもあれがトリッキーなのは、周りが敵に囲まれている、という思想があるからああなるんですよね。だから、アメリカとか余計な国がいなくなり外圧恐怖と自分達の生存が確保されるなら、あそこまでにならなかった気がしますね。

あと、まあ、自国が上手くいっていない不祥事を外へ不満を向けさせる事でのガス抜きというよくある手法。はあ、人間ってーのはまじでつまらん生き物だわな。。。

しかし、政府が嘘をつかない、世界ってのは構築できないものですかねー?

デンマーク辺りなんかは、傍から見れば程度なんかも分からないけど、割とその辺り上手くやっているなーと思ってて、あーいう国に住みたいなーって思う。デンマーク行ってみて思ったほどじゃなかったけど、でもあの国・・・まじで美しいなーって思った。日本の自然とか構成と全然違う。一度でいいから北欧に暮らしたいなあ…でもま、今回のコロナ対応で、スウェーデンに関しては、イメージダダ下がりしたなー。残念だわね。フィンランドかデンマークかなー。

それにしても、日本にはつくづく愛想が尽きてきたな。

部分的に見ればいい人ばかりだよ。でもね、無意識に変な思想とか考え植えつけられている人が多すぎて嫌になるよ。あと、日本人は感じ取りすぎる、空気を読みすぎるんだよ。程ほどに鈍い方がいい時も割とあるよ。。電車でぼーっとさせてほしい。仕事で集中させて欲しい。ただそれだけ。

あとさ、政治家の不正に対して、批判からは何も生まれないっていうわけの分からない思想ももういい加減やめたら?単なる批判じゃないよ、悪い事したら責任取らせないと法治国家じゃないよ。因果応報っていうのをきちんと法律に沿って実行しないと、感情で擁護してどうするの?

ではでは、またっ☆



2020年12月14日月曜日

私の不器用さについて

自らの性格や特徴を説明する時に「 不器用」という表現があるけれども、それだと何だかしっくり来ない。人を不快にさせる、イラつかせるのが得意な人って言った方がいいかもしれない。

(ってかこの説明だと、ひろゆき氏みたいだな。。笑。まあ彼はイラつかせ度が突き抜けてるし、あれでキャラが成立してるからいいんだけど)

本当に自分って人間が嫌になるときがしばしばある。

自分の言動が人を不快にさせている、と感じる時。緊張感を与えているとき。

最初は戸惑い、次に私がどんな悪い事をしたというのか、という怒りを感じ、そして最終的にはここにいるべきじゃないのかもしれないと思い、そして仕事も人と関わる全ての事も、辞めたくなる。本気で。

こんな事を言っても、他の人に中々信じてもらえないのだけれど。

電車に乗っている時も、道を歩いている時も、近くに人が来る事や人と目を合わせるのが怖い。人が近くに来ると反射的に緊張してしまう。

対人恐怖症というよりも、どう反応していいか分からないからだ。

昔、マラソン大会に出る為にジョギングをしている時期があったのだが、人とすれ違うのがとても嫌だった。普段から、道を歩いていて人とすれ違う時に緊張するのだ。

それは、何故かは分からないけれども、人を不快にさせる何かが私にはあるらしく、近くにいると、突然舌打ちされたり、嗤われたり、咳払いされたりするからだ。

クラスでもいつも浮いている存在だったし、しゃべらないと気味悪がられたし。そもそも多人数の人がいる空間で、誰にどう話しかけていいのか、どう振舞っていいのか、分からなかった。

今でもそうだ。

だから仕事場でもよく怒られた。今はおかげ様でそういう事は減ったけど。

こういう人って他にいるのだろうか。

1人でカフェに入ってくつろぎたくても、周りに人がいるとその人に不快感や緊張を与えているのが分かる。電車でもそう。そしてその人達は大抵苛立ちを露にしたりため息をついたり、席を移動したりする。

そしてその度に私は疲れてしまう。

だから、基本的に人のいる場所に行きたくないのだ。

カフェだけじゃない。普通に道を散歩する事も、どこかの集まりに参加する事も。人と一緒にいる、という環境で上手くいくことが滅多にない。

そういう事が出来る環境にいるのに、むしろやりたいのにも関わらず、人と仲良くしたいし上手くやりたいのに出来ない辛さを、誰がわかってくれるのだろうか。

結局、グレーゾーンだと言われながら、発達障がいとはちょっと違うジャンルだとか言われながら、発達障がいの特性があるからなのか。

普通の人と同じように見られるから尚更辛い。

普通じゃない事も辛いのだけど。

そして一番怖いのは人の信用を失う事・・・最初はすごく気に入られても何かのきっかけで人を怒らせ、返答に行き詰まり、そういった諸々の事で人が離れていく。

誰かと何かをする事もろくに出来ないから、誰かと出会って関わる事も正直怖い。

だってその先に壊れることが見えているから。

一体全体、私はどう生きていけばいいのだろう。いつも考えている。

そしてその明確な答えは出ないまま、ダラダラと日常の延長を続けている。

だからいっその事、今の生活を全て辞めて、畑を耕して暮らしたい。シータちゃんみたいな暮らしがしたいと本気で思ってしまうのだ。そんなに都合よくはいかないのは知っていても・・・いつか海外移住したい。

その為には、一刻も早く基地問題に係る植民地主義を解決したい。

って結局そこかよって単純な自分がいる。

無視したい、忘れたい。でも忘れたくない。その狭間でいつも揺れている。


悪い時代だ、はコロナだけなのか?

うちの教会の年に一度の合同礼拝がリモートで行なわれた。

代表牧師の挨拶で、悪い時代だからです、のフレーズが使われた。

悪い時代とはどのような事か分からなかったが、コロナのことだったのか、と思ったと。

しかし、今の政治状況を見ていて、何も感じないとしたら、あまりにも鈍感ではないだろうか?

と感じてしまった。(まあアメリカ大統領選のようなことがあると迂闊に政治的な事は言えない気持ちも分からないでもないのだけれど・・・)

そもそもコロナの前からこの国は、この世界は悪い時代に入っていると言えないだろうか?

アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮・・・そして日本・・・正直、この時代によくもこれだけ酷いリーダーが上についているものだと思わざるを得ない(アメリカは未だ混乱が続くもののようやく混乱に一応の終止符が打たれそうだが・・・それにしてもドナルド・トランプ氏があそこまでみっともない人物だとは思わなかった・・・。腐ってもクリスチャンを公言しているのだから尚更・・・毎日驚愕している・・・心の底から残念でならない・・・)

一体何をやっているんだろうな、人類、と。

その一方でこの危機において素晴らしいリーダーもいる。

ドイツのメルケル首相みたいな人。

そしてリーダーだけでなく、どんな立場にいても、正しく自分のやるべき事を理解して動いている大勢の市井の人達。

これこそが希望だと思う。そしてこのような危機には、正しく立ち向かえる代表者を選ぶ事は大事だと改めて感じている。

それにしても、コロナウィルスは人間の様々なものを炙り出してくれた。

結局の所、コロナウィルスが悪いというよりも、コロナによって人間の本質や今まで溜まっていた歪みが明確に可視化されただけのように思う。

先送りにしていた問題を今やれ、とつきつけられているような感じがする・・・

コロナウィルスの存在は、何を私達に迫っているのか。それを正しく見極め変化していく必要があるのだと感じる。逆に、正しく見極められなければ、より混沌とした世界になってしまうだろう。

危機に対してリーダー達がどのような言動を取るのか、という可視化もされた。

そして、自分がいかにちっぽけな人間かという事も。。。

他山の石としつつ、本当の希望を持って生きていける社会を作りたいと願う。

2020年10月4日日曜日

”パンケーキおじさん”の素顔と本質

安倍内閣が退陣し、菅内閣になって半月が経った。

安倍元首相は、自身の健康上の理由により再度の退陣をする事となった。

当初は当然の事ながら、療養にしばらく専念するものと思われていたが、僅か1ヶ月弱で”再始動”し始めたようだ。

難病という割には、診断書は公表されていない。薬が効いているというが、薬が利く事自体は良い事とはいえ、難病が重症化して退陣したというのに、難病がそんなに都合よく簡単にコントロールできるようになるものだろうか。

また、元気になったのなら数々の疑惑についての説明責任を、改めてきちんと果たしてもらいたいが、そのような考えは今の所一切感じられない。改めてこの「責任の取り方」というものに疑問を感じざるを得ない。逃げ切りで済ませる政治家がこの国にはとても多い。これでいいのだろうか。

さて、安倍内閣に代わって、安倍さんの大嫌いだった石破さんを姑息な手段で排除できる方法を使ったりしながら菅内閣が誕生しました。(「かんないかく」ではありません)

パンケーキおじさんだとかで持ち上げる市民もメディアも多いようですが、半月も経たないうちに、結構なお手前を披露してくれましたね。

下記は、菅内閣が行なった日本学術会議の任命拒否問題を受けて、日本学術会議の会員の方が書いた記事ですが、現内閣の本質に踏み込まれていて、なるほどなーと思いました。

<日本学術会議のこと>

https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2020/10/scj-issue.html?fbclid=IwAR3mmHJopnRiZWwM5k4DN_jDerPuGI4N6YETkeMjIChSEUHFV6gIbE6lalI

改めて、彼の本当の素顔と本質を私たちは見極めていかないとまずいのではないでしょうか。

パンケーキ好きに悪い人がいないとでも?ご冗談を。

パンケーキになど騙されませんよ、菅総理。

2020年8月29日土曜日

あのお方の辞任会見に思うこと

昨日夕方、安倍首相の辞任の発表が行なわれた。

ここ1週間ほどの動きでもしやという話もあったが、これまでの経緯を見てきて、そうそう簡単に辞めることはないだろうという認識でいたのだが、仕事が終わってからスマホのニュースに目をやると辞任会見、とあった。

そうか、やめるんだ、というだけで、特別何も感情は沸かなかった。

私の人生において、やるべき事は何も変わらないからだ。
総理大臣が誰であれ、自分のやるべき事を、淡々とやる事をやるだけだ。

ここしばらく考えてきたことだが、改めてそう思った。

彼について様々な問題意識を持っていた私ではあるが、そのような感情であった。

体調不良は事実なのだろうし、それはお大事になさって下さい、としか言えない。

彼のやって来たことの評価と今後の事を、改めてじっくり考える機会にはなるのかもしれない。

今はゆっくり休養して頂くことが先決だと思うが、体調が落ち着いたら、任期中にあった様々な問題について、取るべき責任があるのならば、しっかりと責任を取って頂きたいと一有権者として思っている。

ただ、LINEスタンプで「安倍さんおつかれ様スタンプ」の特集がまるで図ったかのように配信された事や、ニュースがそれ一色となり、彼の起こして来た様々な問題点を指摘する声を封殺していくかのような空気、まるで労うのが当たり前であり、それをしない事は非国民とまでいうような人が現れた事については、心底不気味に感じられた。

勿論、体調が芳しくない中で頑張ってきたことを否定するつもりもなく、それはそれで「おつかれ様でした」という事ではあるのだけれど、それをして当たり前という雰囲気を意図的に作っていくこの流れには違和感を持たざるを得ない。

彼のことをどう評価するかは人それぞれ自由であり、人柄の評価やどれだけ頑張ってきたか、が重要なのではなくて、それらの中身こそが重要で、有権者に選ばれた者の立場とは、そういうものだろう。

日本人は判官贔屓だといわれる。私自身そのような所もあるが、加えて多数派の人が自民贔屓であり、保守思想贔屓だと思っている。

今の日本人は結構、流れてくる情報を少しかじっただけでイメージで物事を捉える人が多いのではないだろうか。。そして、結局、多くの人が自民贔屓だと感じる。それに気付いていない人も多そうだが。コロナ禍の状況でよりそれは加速しているように感じる。

安倍さんの人柄は多くの人に受け入れられていたのだろうし、それを否定するつもりもないが、評価していない事を評価していない、という事もまた否定されるべきではない。

何も日本に限った事ではないが・・・

そして、野党や安倍首相を支持しない、いわゆるリベラル陣営に対するいつも批判ばかり、というレッテル貼りも酷いものだ。野党が失言してはその度に野党をこき下ろし、リベラルの奴らはこれだからくそだとか、さも分かったかのように誇らしげにこき下ろす雰囲気も大嫌いだ。

確かに、リベラル陣営にはがっかりする事も失望する事もあるが、全ての人がそうではなく、目立つ人を叩いて全体を分かったような気になっているのはいかがなものだろうか?
表に出てこなくとも誠実な人は沢山いるのに。。。と、それこそ唇をかみ締めるような思いだ。

そういう状況に悲観的になる、というのがここしばらく続くのだろうな。

そんな事を思った週末だった。

ここ1年位、政治に絡むような事に関わるのは正直うんざりしているので
自分の夢とか好きな事だけやって暮らしたい気持ちも山々だけれど。

少し時間を取って、民主主義ってなんだってことや政治ってなんだ、って事を改めて考えてみようと思っている。


2020年8月23日日曜日

頼れるのは結局身内だけか?

この所、最近感じる事だが、教会で、神の家族とか、教会の共同体を大事に、とか常日頃から言っている割には実際頼れる事が殆どない、という件について。

何だかんだ、頼れるのは身内だけだなと実感している。

というか、実際頼ろうとしても、体調悪いとか、忙しいとか、人をこき使うなとかいう横槍?を入れてくる人がいて、結局頼れない、という矛盾。

まあ、こちらも殆ど何も出来ていない訳で、それはお互い様なのかもしれないが、タダ働きをさせている訳ではなく、御礼も毎回する訳で、頼む方もそれなりに気は使っているのだけどな。。

結局世の中、金で解決、そうでなきゃ、身内って事かなと思う。

収入は確かに最低ライン生活できる位はあるし、今の仕事場には恵まれているけど、仕事場に恵まれているからこそ何とかなっているレベルなんであって、全然余裕綽々なんかじゃないんだけどね。。

しかし、頼れない結果、身内に身を削らせるのを見てて(まあそうなる事を分かってないのだろうが)、何とも思わないんだからなあ…

やれやれ。

まあ、基本は家族で助け合え、って事なんだろね。それじゃあ、他の宗教や世間一般と対して変わらない気もするよ。祈ってくれるのは有難いが、はっきり言ってそれだけですか?という感じはしてしまうよね。実際。

で実際、牧師夫妻も親の協力あってこそやっていっているのを見ると、”共同体”の意味って何なんだろうなあ、と考えてしまう。

まあ、これは日本人ならではの、遠慮して人にものを頼めない性質、あるいは自分の問題は原則自分でやる、という責任感?というのか義務感からきている側面もある気がするけれど。他の国のクリスチャンはまた違う形態なんだろうか。

人生の意味が労苦に対する忍耐にあるのだというのなら、まあ、そういうもんなんですかねえ、という他ないが。実際、引越しも好きでした訳じゃないのにね。

でも結局、そういう人達のいる場所に心のより所を求めている訳だから、なんだかDVの構造みたいに思えなくもないな、と思う、今日この頃。

2020年8月16日日曜日

日韓の歴史認識の差異について

この記事を最初に書いてから、もう1年も経ってしまったようだ。

当時、この記事を出すのには勇気が要った。私自身、まだまだ勉強不足で偉そうな事を言えないのではないだろうか、とか、そもそも紹介したサイトの人達が、特定の考えを持つ人達に攻撃されるのではないかとの懸念もあったからだ。

だから、結局出せずに下書きのまま残していた。

しかしながら、コロナ禍の中で更に加速度を増している今の惨状を見るにつけ、最早どう思われるかを気にしている余裕はない、と強く感じている。

そもそも、殆ど足跡もつかないこんなちっぽけなブログが何の役に立つか分からないが、
それでも・・・たった1人でもいいから、この記事を読んで、誰かが何かを感じてくれたなら、と思いました。

以下、去年の8/18に書いたものを公開致します。

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ここのところの日韓政府の応酬のやり取りには、心を痛めている。

まず、前提として、何が問題の本質かを整理できていない人が多いように思う。
視点や捉え方がごっちゃになっている人が多いし、
メディアも取り上げ方が恣意的であり、どうも「反日ムード」を自ら煽っているかのようだ。

もっと冷静に、事実を整理して伝えてほしいと、強く、感じる。

そもそもの出発点は、どこにあるのか。
つまるところ、私は歴史認識の違いにあると考える。

もう一つは、戦後補償のあり方についての認識が違うことだ。

日本に関して言うならば、私の認識は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した辺りから、
日本の上層部の中に、朝鮮の人達を、ひいてはアジアの人達を下にみる人達が現れて、その影響が未だに続いているという認識だ。そして近年ではそういう考え方が一定の力を持ってしまい、少なからぬ人達に影響を与え続けている。

それこそが問題の根本だと思う。意識してない人も多いだろうが。。

無論、そうは見ていない日本人も多いことは知っている。

問題は、政府の人間や発言力のある人間に、そういうゆがんだ認識の人が多いことだ。
特に現首相はいろんな意味で問題がありすぎる。

かつては、豊臣秀吉、福沢諭吉、大隈重信、そして残念な事に新渡戸稲造もその枠組みに入っている。

そして、もう一つは、教育の在り方。

私の学生時代がそうだったが、歴史の授業では、昭和史以降はほぼ時間の都合でスルーされる。
だから、太平洋戦争で日本がどんな事をアジアの国にやってしまったか、という事はほぼ教えられない。だから、後付でネットで知った歪んだ情報を元に、日本は悪くないのに、、、という被害者意識が植え付けられていく。

ネットの世界は、本当に幾らでも操作が可能なので、気をつけた方がいい。

日本はアジアを開放する為に、大東亜共栄圏の実現の為、あの戦争をやったのだ、と戦争の意義を肯定する人、あの戦争は避け様が無かった、と肯定する人達がいる(戦争に参加した当事者でもそのように言われる方もいる)。そして、慰安婦はあったけど強制ではなかったし、お金も沢山もらっていた、今になって、持ち出すのはせびりたいだけだ、とか韓国政府のプロパガンダに利用されているとか。

その人達には、韓国が近年まで軍事政権だった事から、そのような告発も許されなかった事、という背景が抜けている。勿論韓国の風習による背景等もあるが。。

大変に残念ながら、あの戦争の実態はやはり侵略戦争であった、というのが、私が認識する太平洋戦争の実態だ。国連脱退も、真珠湾攻撃も、避け様もあったと思う。

人間に完璧な人が1人もいないように、完璧な国など、一つもありえない。

いいことも、わるいことも、ありのままを受け止めることが大事な事ではないだろうか。

そしてもっと大事なことは、国は、イコール自分ではないということ。

どうも日本人は、自分と国を、一体化して考える傾向が強いように見える。
一体化してしまっているから、自身の国の闇の部分を暴かれると、自分の闇を暴かれた、攻撃されたように、感じているのではないだろうか。

この事実をどう継承していくのか、
この事実を、消したい、否定したい人達がいる。なかったことにして水に流したい人がいる。あるいはなんとかして正当化したい、仕方がなかったのだと思いたい人達がいる。

あるいは過去にあった事なのだからもういいじゃないかとか、他の国だって同じように酷いことをしていたのだから、どっちもどっちだという論調も最近ではよく見られる。

そういう人達が多数になってしまっている国に今生きている。辛い。哀しい。なぜ受け止められないのだろうか。
そんな余裕さえ、無くなってしまった人が多いという事だろうか。

でも歴史の生き証人である当事者達は、辛くとも忘れないでほしいと、恥を忍んで、覚悟をして、証言してくれた。
その勇気を、覚悟を、受け止めたい。

そしてもう二度とこのような悲劇が起こらないように、何ができるのか、考えていきたいのです。。。

核兵器の悲劇もそう。。。アメリカを憎んでもいい事はないし、アメリカ人を憎みたくはない。
しかし、彼らのやったことを、アメリカのやった事を、忘れはしない。

私達は双方に、被害者でもあり、加害者でもある。

傷を負った者同士、このような悲劇を過ちを繰り返さないために、
仮に止めきれない事があったとしても。わざわざ同じ過ちを繰り返したいとは、誰も思うまい。

だから、記憶に、刻むのです。


以下は、事実関係について参考になるサイトです。

参考書籍も沢山出ているけれども、一般のメディアや学校では殆ど取り上げられず、
日本は正しい!と主張する本や情報ばかりが多数を占めています。。。

ドイツのようにしっかり向き合わなければ、またこの国は同じ轍を踏んでしまう、そんな危機感があります。

<慰安婦問題について>
Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任
http://fightforjustice.info/?page_id=2

<徴用工問題について>

「徴用工判決」で報じられない「不都合な真実」 山本晴太 弁護士
2018年11月23日 徴用工判決|日韓請求権協定
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018112000004.html

<戦後の補償問題について>

法律事務所のアーカイブ
http://justice.skr.jp/

こちらは、今までの戦後補償についての資料がほぼ網羅されていると知人より、情報を頂きました。

まずは過去にどういう出来事があったのかをなるべくフラットに見て、その上で何がこの問題を複雑にしているのか、を考える必要があると思います。

色々見てきた中で、決して韓国側に問題がないとは私は思わないけれど、簡単に、相手に反日レッテル、あるいは親日レッテルを貼る事について、私は強い違和感を覚えるし、そのような発想では、何も生まれないと思っています。

たった一人でもいい、これを見た人が何かを感じて、考えるきっかけになればと、心から願っています。

2020年8月10日月曜日

住まう、という事についての雑感

最近、引越しをした。

きっかけは住んでいたマンションでの音によるストレスの限界である。

だが、実際に引っ越してみると何のことはない、頑丈だと聞いていたマンションだったが、こちらの方が余程音が気になってしまう事に気付いてしまい、愕然としてしまった。

考えてみれば以前のマンションは角部屋だったし、部屋数が少なかった。

だから気付かなかったのだが、今の部屋は隣と隣に挟まれていて、尚かつ部屋数が多い。

下からはさすがにあまり聞こえて来ないが、上、斜め上、左右からと常に音に晒される。(そして、部屋の空気が循環しにくく湿気が篭りやすい)

しかも、部屋数が多いから、朝はあちこちから窓の開け閉めは聞こえるし、掃除機をかける音は仕方ないにしても、それ以外の音さえも結構聞こえてくることへの衝撃。。というか、部屋の備え付けの食器棚の開け閉めをするだけで音が聞こえているとは???

食器や鍋をコンと置くこと、レンジや冷蔵庫の開け閉め音も少しでも力を入れてしまうと聞こえているようだし、これじゃ料理も怖くて迂闊に出来やしない・・・一番大きいのは玄関の音で、結構な衝撃音だ。あとはお風呂場の蛇口だが、蛇口も力の入れ方を間違えるとゴゴン!と気持ちの良い位の音が響いてくる。

これがSRCと呼ばれる、壁もコンクリのマンションの現状なのか?と思えてくる。

そして、以前の部屋の方がむしろまだマシだったのかもしれないとさえ思うようになった。少なくとも前のマンションは、上の住人の騒音や嫌がらせまがいのような行為はあったものの、隣と上の音さえ我慢すれば済んでいたのだ。(とはいえ、話し声が結構聞こえてしまう事はストレスだったが・・・正直今の部屋も声の聞こえ具合も大して変わらないように思える)

ただ、以前のマンションは住人同士の交流が全くなく、上の住人に対する不信感が募りすぎて憎悪の感情を抱く程になってしまい、かえって相当な自己嫌悪に陥ってしまった事もあったので、引越しを決意した。

前回の失敗に懲りて、今回は近所付き合いのそれなりにありそうなマンションを選び、上下左右にきっちり挨拶をした。その際お隣のご夫妻にこのマンションは静かなのが気にいって選んだのよ、音?まーったく気にならないから大丈夫よ、と親切に仰って下さり、ほっとしていたのだけれど・・・。正直、全然聞こえてますやん・・・としか思えない毎日です。

それはそれとして前回の部屋はPCのタイプ音が隣と何故か上!に聞こえていたようだったので、本当にきつかったが、今の部屋はさすがに聞こえていない(多分・・・)ようなので、それだけは心底ほっとしている(マジで聞こえないでいてくれ・・・じゃないと在宅も出来ない・・・)

そしてつくづく感じていること。

集合住宅ってやつは、これがスタンダードなんでしょうか??という事。

確かに私は人よりも過敏な所がある(特性上気が散りやすく、人と長時間一緒にいるのが苦痛)し、1人静かな場所にいる事を好む傾向があるから、それもあるかもしれない。

そして長らく戸建で暮らしてきたせいもあるだろう。

しかしそれを抜きにしても、料理するにも掃除や片付けするにしても、オーディオ鳴らすにしてもこんなに気を使うっていうのは、そもそもが安心して暮らすはずの住まい、という所から、何か根本的に違っているのではないか?と思えてならない。

そして一軒家、戸建を選ぶ人の気持ちが今、本当によく分かるのだ。

別に大声で叫んだり暴れまわりたい訳じゃない。

ただ、普通に電話で話したり音楽を聴いたりしたい。普通にミシンがけしたい、普通に料理したり家事を気兼ねなくやりたい。気兼ねなく風呂に入りトイレに行きたい。ただ、それだけなのだが・・・

集合住宅とは音は多少なりとも聞こえるものだ、と言われたらそれまでなのだが、自分の音が聞こえてしまっていると分かると、私の場合はもう駄目なのだ。そして、それが過敏すぎる、気にしすぎだと言われたらやはりそれまでなのだが、私が驚くのは、多くの人がこの環境下を受け入れて生活しているという事だ。

もっと予算を上げて防音性の高いマンション等に住む選択肢もあるにはあるが、限られた予算の中ではこれで我慢するしかない事を考えると、集合住宅が通常レベルでこういうものだとするならば、私はもうこれから二度と集合住宅を選ぶことはないだろう。

勿論、世界にはもっとこんなもんじゃないような生活環境、住まいさえない人も大勢いる、特に今のコロナ禍の中では尚更である。それに比べたら私は余程恵まれているだろう。

ただ、私のような他人が壁を挟んですぐ隣にいて音が聞こえてしまう事がストレスになってしまう人、過敏な人もいるだろう。

今回はいい勉強にはなったと思うと同時に、人間らしく安心して暮らせる住まいのあり方というものを、もっと考える必要があるのではないかと感じている。住居にお金がかかりすぎることも含めて。

人類の為というと大袈裟だが、真面目にそう考えてしまう。

どんな人であっても安心して暮らせる住まいがもっと増えることを、心から願っている。

2020年1月14日火曜日

闇は光に打ち勝たなかった

という聖書の箇所を信じて、暗闇の中でも、絶望の中でも、声をあげる姿に心を打たれる。

2019年5月1日。元号だ天皇交代だと、何の疑問も持たずに多くの日本人が沸き立つ中。

ある田舎町で、1人、絶望的な気持ちになっていた私に、ささったニュース。

この日本で、この時代に、クリスチャンとして、声を上げてくれて、ありがとう。。

即位巡る儀式「政教分離に違反」 キリスト教団体が会見
https://www.asahi.com/articles/ASM4Z3CYDM4ZUTIL008.html

二度とあの時代を、同じ過ちを、繰り返さない。

大袈裟だと、大抵の人は言うかもしれない。でも私は、この空気に、多くの人の認識の中に紛れ込む感覚の中に、危ういものを感じている。

2001年の同時多発テロの後、小泉首相は、アメリカの対テロ戦争に賛同して自衛隊を送った。あの時あたりから、戦争を経験する世代の人達が戦前の空気に似てきていると語り始めるのを聞いた。

それは過去からの、そして今も生きている戦争の生き証人からの警鐘。

そして、一クリスチャンからの、ささやかなエール。

政教分離はしっかりせんと、おかしくなりまっせ!

2019年12月1日日曜日

*日本で今起きていることについて*

普段、 色んな理由から、あまり自分で文章を書くことのない私も、さすがに自分の感じていることを何かしら書かなければならない気がしました。昨今の日韓関係のこと、沖縄の基地問題のこと、香港のこと。もどかしく伝えきれない事は沢山ありますが、それらを少しでも良い方向に向かわせる為にも。。そしてこの国の有権者としての最低限の矜持として。。

沖縄にまつわる問題を始め、様々な理由から安倍政権を支持した事は一度もない私ですが・・・それにしても、今回の桜を見る会の不正疑惑は、内容もさる事ながらその弁解もあまりにもあからさますぎて、驚いています。

原発、安全保障、貿易、税のあり方、教育のあり方、解釈改憲、統計不正、入管の非人道的対応。。。
今までが色々な事がありすぎましたし、桜を見る会そのものは私にとっては正直どうでも良く、他の重大な問題が山積している中その課題をどうするか議論し方向性を作っていかなくてはならないと思います。

でも、、、
それ以前に、一国を預かる政権与党ないしは総理大臣が、有権者の事後買収、供応接待、暴力団員への利益供与、更には公文書の恣意的な破棄や隠ぺいを行なっている可能性が深まっており、それをめぐっての答弁も2転3転を繰り返し、国会で問題になっています。

これらを放置した状態のままで、果たして国の正しい舵取りができるのでしょうか。

政治家への信用度が最低ランクのこの国では、政治家なんてこんなもんでしょ、政治家はそういう裏の付き合いからも逃れられないのでしょう、政策ちゃんとやってくれればいいから、忙しくてそれどころじゃないし、政治の世界は難しくてよく分からないし、いちいち気にしていたらきりがない。

そんな風に思っている人は私も含めきっと多いでしょう。だれだって自分の仕事や暮らしがある。
でも、それにしても、日本人は今このような政治家の不正や不誠実な言動に対して、またやってるよ、みたいになってて、すごーく感覚が麻痺してしまってる気がするのです。

政治家って自分達が選んでる国の立法府の代表、ですよね。
今、その人達が堂々と不正やってるかもしれない、それを自分達は横目でスルーしているかもしれない。
特に、公文書が為政者の都合で破棄されたり、公表しなかったり、黒塗りで出てきたり。今の政権ではそういう事が平気で行なわれていますが、これって果たして正常なんでしょうか。

単純に同じことを、普通の会社で同じことをしたらどうなるか、と置き換えてみると分かりやすいと思います。

いやそんなに重大な問題なら検察も警察も動いてくれる筈・・・私もさすがに余程の事ならそうなるだろうと思っていました。

でもその政治家がその権力を利用して仮に裏で手を回していたら?検察と警察も内閣府と一体化してしまっていて、自浄機能が麻痺している状態だったら。。。?
どんな悪い事をしても捕まらずにいられるし、日本の国会議員には余程の事がない限り逮捕されない特権も与えられています。

察するに、きっと多分それが今の状況。
これは大袈裟でも陰謀論でもなく、もう政治の世界で最早まかり通ってしまっているのだと思います。
小学生でも分かるような嘘をつく人を目の前にして、幾ら素人でもそう思わざるを得ません。

格差が縮まらない中で、ただでさえ先行きの見えない暮らしを、これ以上政治の影響で混乱させたくない人もいるかもしれない。
あるいは今の暮らしに満足しているから特に気にならない人もいるかもしれない。

でも、色々な疑惑が明るみに出ている中で、私達一人一人が今の生活を維持する事だけに安住して、国の予算を預かり運営する人達の不正をスルーし続けて放置することは、やはりどこかでそのしわ寄せや不利益を被ることにつながると思います。特に目には見えない価値の方で。。。

ここまで色々ありすぎるとどこから手をつけていいのか最早分からないというのも正直なところだけれど、、まずはあれ?おかしくないかこれ?って感覚を忘れないことが大事な気がします。

これおかしくない?って、少し勇気をもって周りの人と話してみる。

幾らなんでもこれは許しちゃまずい!ってラインを自分で決めて、許しちゃいけないラインを超えてくる政治家は有名だろうが何だろうが絶対に投票しない。

きちんと不正を追及してくれる政治家や正しい方向で頑張ってる議員さんを応援する。

1人の人がそれぞれに何か1つでもできる事をやってみる。そんな事が大事な気がします。
もしかして底なし沼のどす黒い闇の中に一滴の水を垂らす程度のものかもしれないとしても。

読んでくれた方の中で、この問題についてあまり知らない、興味ない方にこそ、ちょっと立ち止まって考えてみてもらえたら嬉しいです。

2019年8月14日水曜日

旅するように暮らしたい

旅するように、暮らしたい。

なんてことを、クリスチャンの私が考えているという、究極的な矛盾☆きらっ
そーでもないのかなー。どうなんでしょう。(BGMはDoasの遠くまで)

昔はもっと強烈だった。特に20代半ば頃は。
割とその年齢で自分の方向性とか生き方に悩む人は多いらしく、そういう時期なんかもなーとも思う。まあ、そのときは教会離れていた訳だが。

でもこれも、実現せずに時間だけが過ぎていって、年をとったら、どーでもよくなるのかもしれないね。
とか思いつつ、知り合いの子のFacebook見て落ち込んだりなんかしてね(苦笑)
今更だよなあ。。なんて思いつつ泣いたりなんかしちゃってね。
何せ、クリスチャンになっちゃったし、な。あと仕事も。。これから頑張らなきゃだし。この年で大した経歴もない訳だし、職場には散々お世話になってる。
それが私の最大のブレーキだな。

ああ、やはり一度飛び出しておくべきだったわさ。学生時代に戻りたい…

だからこそ逆モードでどこまで許されるか試しても見たい。まあ、そういう事やると放蕩息子の例えなんか持ち出される訳だが。やれやれ。

やっぱり一度しかない人生じゃん、やりたい事やろーよーって思う自分と、
そんなに自分、器用でも社交的でもないんで、いつかの時みたく、行ったはいいが凹むだけやろ、、自己嫌悪に陥るだけやろ、と思ったり。

いやいや、人は何のために生きてるのか、神様が作られたんやろ、その辺り理解して行動しいや、って突っ込む自分。

うーん、でも結構うちの周りの若手クリスチャン、自由じゃないですかあ。
楽器やったり、映画行ったり、(それ普通やん!)、あ、コミケ行ったり、航空ショー身に行ったり。。。ってここら辺はあまり共感できなくなってくる領域。

まあ、悩ましいのは結局の所、趣味はともかく、政治的な考え方が一致していない、って所なんよね。クリスチャン同士なのにね。

そこのあたりが最近の悩み。

ってか悩んでても始まらんのも分かってる。

でももう少し聖書のお勉強しないと。。結局堂々巡りなんよね。

こういう事を考えられているだけ、自分は恵まれているのも分かってる。

尊厳って、自由ってなんやろう。

大事なものには違いない。

でも、それを両立させるだけの術がないように思う。

結局の所、真理はあなたを自由にする、を理解できたなら、本当の意味で自由になれる、と牧師や母は言うのだ。ほんまでっか?

そんな中、今また聴いている。空想旅団、大好き。
音楽は、私を、精神的に、自由な世界に連れて行ってくれる。
そして何かできるような気持ちにさせてくれる。それも幻想なのかもしれないけれどね。

そうだ、なんで、旅したいかっていうと、今の日本に辟易しているからです。
基本的に心配性だしネガティブ思考なんだろうけど、私の、これ日本やべえよ、ってセンサーが、2001年位から、働いているんだ。それが、2012年の暮れに再度やべえええってなった。まあ、端的に言うと、”あのお方”が返り咲いちゃったせいなんですけどね。
とはいえ、何でもあのお方のせいにするつもりもないが、あのお方を代表する日本の闇の集積みたいなもの、に対する危機感、ですな。

で、旅をしたいのは、社会的な問題を解決したいから、過疎化の問題や気候変動の問題、その他いろいろ社会で起きている問題を、世界に行って、先進的にやっている所を見てみたい、他の国の人々の生き方をこの目で見たい、って思っているからなんだ。

今も昔も、ね。

でもね、日本の気候・風土も嫌いじゃないけど、海外の暮らしをやっぱりしてみたいね。
食事さえ合えば、あとコミュ力の問題さえ解決すればな。

そう、でもこの旅するように暮らす、って事のブレーキになっているもう一つの大きな理由。旅している場合じゃない、って思うこと。

私と沖縄との出会い、は大きいかもしれない。
端的に言えば、基地問題。それと、他の集積している様々な無視できない問題が、わたしを日本に推しとどめている。


気候変動とライフスタイル、ジレンマ

今年は特に世界各地で猛暑で、もはや私達のライフスタイルを変えないとまずいんじゃね、レベルまできてる。危機感を持つ人は、決して少なくない。

けど一般的なクリスチャンは、人権、人道問題に比べると、これらをあまり気にしてるようには、見えない。

私は自分で大した事何もしてないから言える義理もないのだろうけど、元々環境に関心がある身として、クリスチャンが環境問題に関心がないって事が、どうも引っかかる。
関心があるクリスチャンも一部にはいるけど、やはりそれは少数派に見える。

だからかな、いつもモヤモヤするのって。

それと、うちの教会は、食前のお祈りの時に、神様と、料理を作って下さった方とに感謝する、といつも言う台詞の中に、
貴重な命を捧げてくれた動物達、植物達に対する感謝、がない。

そう、自分も感謝を忘れがちだから、人の事は言えないけど。。

人間の命を繋ぐ為に、他の命を頂いて生きている、その事についての感謝、がクリスチャンにはないのかなぁって。。

神様は人間を特別な存在として作られたから、その特別な存在に対して他の動物や植物が命を捧げるのは、当然て考え方なのかな。

環境問題含め、命に対するその視点の違いにもモヤモヤする。

あとつまる所、世界中の人々に福音を伝える=宣教が神様の命令で。
それに従うのが、人間の幸せだという事だそうなのですが。

それじゃ、やっぱり「この道しかない」になるので自由じゃない気がしてしまう。

自由に生きる事を許さない考えは、やはり息苦しい。

政治にも社会運動にも迂闊に関われないし、自分の自由には行き来も出来ないし。

無論、環境問題を考えたら人間や物が自由に行き来する事がいいとは言えない訳だけど。
でも資本主義は認めているから、自由貿易肯定な訳だ。すると、そもそもがエコとは言いがたい。(アーミッシュはその点、徹底しているのですごい)

そしてクリスチャンは、宣教のためならどこへでも行くから、やはりエコとは言えない。。

つまり、クリスチャンとエコは最初から両立しない訳ですね。
そこも引っかかるんですよね。

地球が滅びる前提で、エネルギー消費し続けてる存在なのかな?
と、思ったりします。

いや、他の人間も基本的にはそれは同じなんだけれども。

つまり私の今抱えているジレンマは、
自由と尊厳を求めて生きる人間という存在が、環境とバランスを取ることは難しいのか。

そして、何よりも難しいのが、欲望、孤独のコントロール、人間関係であり、価値観や考え方の違い、資源や領土にまつわる争い、これらの余計な問題を抱えてしまうことだ。

あと、日本人の危機感のなさ、にもモヤモヤすることも、しばしばある。

たとえば、ニホンウナギが絶滅危惧種になっているのは、前からニュースなどでもしばしば報じられているところだが、ウナギを食べるのを控えよう、とはならない。

ニホンウナギがダメなら、他の地域からウナギの幼魚を連れてきて、養殖すればいい、という発想。

土用の丑の日、を風習だから?と続けている。。。ノルウェーだったか、同じウナギ好きの国でも、ウナギ風味の代替品に変えて、それでみんな食べてるというのを見た。日本でも、どうしてそういうことを出来ないのだろうか?

職場でも、丑の日だしこどもたち好きだから、奮発しちゃった、と嬉しそうに言うお母さん達・・・
うーん。。。その裏で、色々な人達が苦労している事とか、ウナギがもう絶滅寸前であることとか、って考えないのかなあ、って。ニュースで言ってるのになあ、って。

悪気はないんだろうけど、悲しくなる。

そういうのって、無意識なんだよね。気付けば、変わってくれるとは思うけど。

日本は自然が豊かで、森も水も豊かなところなのに、なぜか、そういう観点が抜けちゃってる人も多いんだよね。そこが複雑なんだ。
報道の仕方もだし、そもそも、そういうものを管理しているはずの、水産庁にかなり問題ありだと、以前から思っている。

こういう時、
「ウナギは私も好きだけど、今、絶滅しそうになってるから、それもちょっと心配だよね。ノルウェーでは代替品がウナギの代わりに流通してるんだって!」
とかさらっといえたら、いいのにな。

でもそういう事を言ったら、引かれるのかな、、そう考えちゃうと言えないんだ。

自由と尊厳のあいだ

自由に生きたい。

私をはじめとして、多くの人が願うことかもしれない。

ではしかし、自由とは何か?

最近、というか割とよく考えること。

人は自由であることを願う。

その一方で幸せになりたい、安心して暮らしたい。平和に暮らしたい。

そんな願いを持つ。

幸せとは何か?自由とは何か?

人生に行き詰まりを感じて洗礼を受けてからも、しばしば考える。

そして、自分だけじゃなくて、周りの人が苦しんでいる時、悩んでいる時、
みんなが幸せに平和に、そして自由である為にはどうすればいいかと考える。

同時に、地球に生きている他の生き物や環境のバランスについても考える。

感受性の敏感な人達は普段から感じ取っているかもしれないけれど、都会に暮らす私のような人間は、しばしば忘れがちだ。
人間は他の生き物の命を頂いて生きていると言う事。そして、多用な生命体と環境の絶妙なバランスの上に、私達は生かされているという事。

美味しいものを食べたいというのは自然な欲求かもしれない。でも、その上には沢山の命があるのだということ。。。ただ美味しいものを食べて楽しんでいる間には、気付かないけれど。

自然が猛威を振るうとき、壊れていく時、人間達に危害が及んで、誰かが警告を発してくれて、私達はようやっと気付く。ああ、私達は、人間だけが生きている訳じゃないのだと。この自然に、様々な生き物の間に、生かされているのだと。

けれど、やはり美味しいものは食べたい。
便利に快適に、安全に暮らしたい。

これらの願望が単なる欲望か、それとも当たり前の権利なのか、どこまでを権利とするのか、どこまでをセーブするのか。

少なくとも、みんなが自分の思い通りにやりたい放題やれば、この地球も世界も安定を保てないだろう。

上手くバランスを取ることは出来ないものだろうか。共に生きていくために。。。とも思う。

そして、面白い事に、便利で快適である事、限りなく自由である事、自分の思い通りになる事が、幸せに繋がるとは限らなかったりする。自由でないから自由の有り難さが分かるし、当たり前の事を当たり前に出来ないから辛い人の気持ちに共感できたりもする。

苦しみには誰も好んで遭いたくはないだろうが、苦しみから学ぶ事が出来るのもまた真実であるのだ。

私がブログを書こうと思うタイミングというのは、世の中で起きている事について危機感を持ったとき。違う!こんなのよくない・・・おかしい、とか納得できないと思ったときだ。

要するに、ポジティブじゃないときに始めるのだ。

だから書く内容は基本的に、硬くて重めかもしれない。
そしてその内容にはしばしば矛盾もあるだろう。簡単な解決策がある訳でもない。

けれど、根本には、幸せでありたい、自由に生きたい。
そして、なるべくみんなの幸せも大事にしたい。それが根底にある。

夢を見たい、平和とは守るものではなく、作り出すものだ。

(洗礼を受けた身であるが、聖書をきちんと理解している訳でもなく、その事実をオープンにすると色々誤解を招くかもしれないので、自身がクリスチャンであると言う事は正直憚られた。が、あえてここではオープンにしながら、自分の疑問が解消したら都度、また公表するスタイルにしようと思う。)

クリスチャンであることは、自由とは対極にあるように思える。
窮屈に生きるように思える。

だからこそ日曜に教会に行きながらも、仕事に通いながらも、
どこかで、いつも、違う自分の人生を夢見ている。

というか、元々、環境問題に関心があって、田舎で自給自足して暮らすのが
理想的な暮らしだと思っていた。

同時に、まだ卒業したてだったから、もっと他の世界も知りたいと思った。

まだ都会暮らしで、自由を楽しみたいと思った。

田舎に移ってしまったら、閉鎖された空間の中で、それもクリスチャンである自分にとっては、神道や仏教の文化の中で暮らしている人が多数の中では、生きづらくなるという漠然とした恐れがあったから。。。

とかくこの世は生きにくい、とは、私にぴったり当てはまるかのような言葉だ。
なんだか色々考えすぎるし、基本、内向的な自分だから。

それでも、いつか世界を旅したいという夢がある。コミュ力低すぎだし、色々不器用だし、感受性は低いし、物分り悪すぎで、泣けるような自分だけどな。

留学も本当はしたかったんだぜ。ていうか今もしたいし、海外で暮らしたい。

夢を見ることは生きること、そして、本当は羽があったなら、自由にどこへでも飛んでいけるのにな、無駄なエネルギーを使わずに、自由に幸せに生きる道をみつけたい。

はじまりのうた

このブログを開設したのは、秘密保護法が強行採決された後で日本がどう変わっていくのかを記録しておきたかったから。2013年12月6日。

でも、あの時は、まだ、上手く言葉に出来なかった。
というか、完璧を求めすぎていたのかもしれない。

あれから、5年。

なぜか自公政権は歴史の節目の日、それもネガティブな日に、わざとなのか、こういう強行採決のような事や人の気持ちを踏み潰すような事をしてくる。
そう、辺野古の土砂投入もそうだ。

これは意図的になのだろうか。それともたまたまなのか。

どちらにせよ、この日が歴史的に意味を持つ日である以上は、色々な意味で忘れる事の出来ない日になるだろう。

私自身、尊厳と自由の狭間で矛盾してるこの思いを綴っていきたい。

その思いでこのブログを開設します。