2019年8月14日水曜日

自由と尊厳のあいだ

自由に生きたい。

私をはじめとして、多くの人が願うことかもしれない。

ではしかし、自由とは何か?

最近、というか割とよく考えること。

人は自由であることを願う。

その一方で幸せになりたい、安心して暮らしたい。平和に暮らしたい。

そんな願いを持つ。

幸せとは何か?自由とは何か?

人生に行き詰まりを感じて洗礼を受けてからも、しばしば考える。

そして、自分だけじゃなくて、周りの人が苦しんでいる時、悩んでいる時、
みんなが幸せに平和に、そして自由である為にはどうすればいいかと考える。

同時に、地球に生きている他の生き物や環境のバランスについても考える。

感受性の敏感な人達は普段から感じ取っているかもしれないけれど、都会に暮らす私のような人間は、しばしば忘れがちだ。
人間は他の生き物の命を頂いて生きていると言う事。そして、多用な生命体と環境の絶妙なバランスの上に、私達は生かされているという事。

美味しいものを食べたいというのは自然な欲求かもしれない。でも、その上には沢山の命があるのだということ。。。ただ美味しいものを食べて楽しんでいる間には、気付かないけれど。

自然が猛威を振るうとき、壊れていく時、人間達に危害が及んで、誰かが警告を発してくれて、私達はようやっと気付く。ああ、私達は、人間だけが生きている訳じゃないのだと。この自然に、様々な生き物の間に、生かされているのだと。

けれど、やはり美味しいものは食べたい。
便利に快適に、安全に暮らしたい。

これらの願望が単なる欲望か、それとも当たり前の権利なのか、どこまでを権利とするのか、どこまでをセーブするのか。

少なくとも、みんなが自分の思い通りにやりたい放題やれば、この地球も世界も安定を保てないだろう。

上手くバランスを取ることは出来ないものだろうか。共に生きていくために。。。とも思う。

そして、面白い事に、便利で快適である事、限りなく自由である事、自分の思い通りになる事が、幸せに繋がるとは限らなかったりする。自由でないから自由の有り難さが分かるし、当たり前の事を当たり前に出来ないから辛い人の気持ちに共感できたりもする。

苦しみには誰も好んで遭いたくはないだろうが、苦しみから学ぶ事が出来るのもまた真実であるのだ。

私がブログを書こうと思うタイミングというのは、世の中で起きている事について危機感を持ったとき。違う!こんなのよくない・・・おかしい、とか納得できないと思ったときだ。

要するに、ポジティブじゃないときに始めるのだ。

だから書く内容は基本的に、硬くて重めかもしれない。
そしてその内容にはしばしば矛盾もあるだろう。簡単な解決策がある訳でもない。

けれど、根本には、幸せでありたい、自由に生きたい。
そして、なるべくみんなの幸せも大事にしたい。それが根底にある。

夢を見たい、平和とは守るものではなく、作り出すものだ。

(洗礼を受けた身であるが、聖書をきちんと理解している訳でもなく、その事実をオープンにすると色々誤解を招くかもしれないので、自身がクリスチャンであると言う事は正直憚られた。が、あえてここではオープンにしながら、自分の疑問が解消したら都度、また公表するスタイルにしようと思う。)

クリスチャンであることは、自由とは対極にあるように思える。
窮屈に生きるように思える。

だからこそ日曜に教会に行きながらも、仕事に通いながらも、
どこかで、いつも、違う自分の人生を夢見ている。

というか、元々、環境問題に関心があって、田舎で自給自足して暮らすのが
理想的な暮らしだと思っていた。

同時に、まだ卒業したてだったから、もっと他の世界も知りたいと思った。

まだ都会暮らしで、自由を楽しみたいと思った。

田舎に移ってしまったら、閉鎖された空間の中で、それもクリスチャンである自分にとっては、神道や仏教の文化の中で暮らしている人が多数の中では、生きづらくなるという漠然とした恐れがあったから。。。

とかくこの世は生きにくい、とは、私にぴったり当てはまるかのような言葉だ。
なんだか色々考えすぎるし、基本、内向的な自分だから。

それでも、いつか世界を旅したいという夢がある。コミュ力低すぎだし、色々不器用だし、感受性は低いし、物分り悪すぎで、泣けるような自分だけどな。

留学も本当はしたかったんだぜ。ていうか今もしたいし、海外で暮らしたい。

夢を見ることは生きること、そして、本当は羽があったなら、自由にどこへでも飛んでいけるのにな、無駄なエネルギーを使わずに、自由に幸せに生きる道をみつけたい。

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