この所、最近感じる事だが、教会で、神の家族とか、教会の共同体を大事に、とか常日頃から言っている割には実際頼れる事が殆どない、という件について。
何だかんだ、頼れるのは身内だけだなと実感している。
というか、実際頼ろうとしても、体調悪いとか、忙しいとか、人をこき使うなとかいう横槍?を入れてくる人がいて、結局頼れない、という矛盾。
まあ、こちらも殆ど何も出来ていない訳で、それはお互い様なのかもしれないが、タダ働きをさせている訳ではなく、御礼も毎回する訳で、頼む方もそれなりに気は使っているのだけどな。。
結局世の中、金で解決、そうでなきゃ、身内って事かなと思う。
収入は確かに最低ライン生活できる位はあるし、今の仕事場には恵まれているけど、仕事場に恵まれているからこそ何とかなっているレベルなんであって、全然余裕綽々なんかじゃないんだけどね。。
しかし、頼れない結果、身内に身を削らせるのを見てて(まあそうなる事を分かってないのだろうが)、何とも思わないんだからなあ…
やれやれ。
まあ、基本は家族で助け合え、って事なんだろね。それじゃあ、他の宗教や世間一般と対して変わらない気もするよ。祈ってくれるのは有難いが、はっきり言ってそれだけですか?という感じはしてしまうよね。実際。
で実際、牧師夫妻も親の協力あってこそやっていっているのを見ると、”共同体”の意味って何なんだろうなあ、と考えてしまう。
まあ、これは日本人ならではの、遠慮して人にものを頼めない性質、あるいは自分の問題は原則自分でやる、という責任感?というのか義務感からきている側面もある気がするけれど。他の国のクリスチャンはまた違う形態なんだろうか。
人生の意味が労苦に対する忍耐にあるのだというのなら、まあ、そういうもんなんですかねえ、という他ないが。実際、引越しも好きでした訳じゃないのにね。
でも結局、そういう人達のいる場所に心のより所を求めている訳だから、なんだかDVの構造みたいに思えなくもないな、と思う、今日この頃。
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