2019年8月14日水曜日

旅するように暮らしたい

旅するように、暮らしたい。

なんてことを、クリスチャンの私が考えているという、究極的な矛盾☆きらっ
そーでもないのかなー。どうなんでしょう。(BGMはDoasの遠くまで)

昔はもっと強烈だった。特に20代半ば頃は。
割とその年齢で自分の方向性とか生き方に悩む人は多いらしく、そういう時期なんかもなーとも思う。まあ、そのときは教会離れていた訳だが。

でもこれも、実現せずに時間だけが過ぎていって、年をとったら、どーでもよくなるのかもしれないね。
とか思いつつ、知り合いの子のFacebook見て落ち込んだりなんかしてね(苦笑)
今更だよなあ。。なんて思いつつ泣いたりなんかしちゃってね。
何せ、クリスチャンになっちゃったし、な。あと仕事も。。これから頑張らなきゃだし。この年で大した経歴もない訳だし、職場には散々お世話になってる。
それが私の最大のブレーキだな。

ああ、やはり一度飛び出しておくべきだったわさ。学生時代に戻りたい…

だからこそ逆モードでどこまで許されるか試しても見たい。まあ、そういう事やると放蕩息子の例えなんか持ち出される訳だが。やれやれ。

やっぱり一度しかない人生じゃん、やりたい事やろーよーって思う自分と、
そんなに自分、器用でも社交的でもないんで、いつかの時みたく、行ったはいいが凹むだけやろ、、自己嫌悪に陥るだけやろ、と思ったり。

いやいや、人は何のために生きてるのか、神様が作られたんやろ、その辺り理解して行動しいや、って突っ込む自分。

うーん、でも結構うちの周りの若手クリスチャン、自由じゃないですかあ。
楽器やったり、映画行ったり、(それ普通やん!)、あ、コミケ行ったり、航空ショー身に行ったり。。。ってここら辺はあまり共感できなくなってくる領域。

まあ、悩ましいのは結局の所、趣味はともかく、政治的な考え方が一致していない、って所なんよね。クリスチャン同士なのにね。

そこのあたりが最近の悩み。

ってか悩んでても始まらんのも分かってる。

でももう少し聖書のお勉強しないと。。結局堂々巡りなんよね。

こういう事を考えられているだけ、自分は恵まれているのも分かってる。

尊厳って、自由ってなんやろう。

大事なものには違いない。

でも、それを両立させるだけの術がないように思う。

結局の所、真理はあなたを自由にする、を理解できたなら、本当の意味で自由になれる、と牧師や母は言うのだ。ほんまでっか?

そんな中、今また聴いている。空想旅団、大好き。
音楽は、私を、精神的に、自由な世界に連れて行ってくれる。
そして何かできるような気持ちにさせてくれる。それも幻想なのかもしれないけれどね。

そうだ、なんで、旅したいかっていうと、今の日本に辟易しているからです。
基本的に心配性だしネガティブ思考なんだろうけど、私の、これ日本やべえよ、ってセンサーが、2001年位から、働いているんだ。それが、2012年の暮れに再度やべえええってなった。まあ、端的に言うと、”あのお方”が返り咲いちゃったせいなんですけどね。
とはいえ、何でもあのお方のせいにするつもりもないが、あのお方を代表する日本の闇の集積みたいなもの、に対する危機感、ですな。

で、旅をしたいのは、社会的な問題を解決したいから、過疎化の問題や気候変動の問題、その他いろいろ社会で起きている問題を、世界に行って、先進的にやっている所を見てみたい、他の国の人々の生き方をこの目で見たい、って思っているからなんだ。

今も昔も、ね。

でもね、日本の気候・風土も嫌いじゃないけど、海外の暮らしをやっぱりしてみたいね。
食事さえ合えば、あとコミュ力の問題さえ解決すればな。

そう、でもこの旅するように暮らす、って事のブレーキになっているもう一つの大きな理由。旅している場合じゃない、って思うこと。

私と沖縄との出会い、は大きいかもしれない。
端的に言えば、基地問題。それと、他の集積している様々な無視できない問題が、わたしを日本に推しとどめている。


気候変動とライフスタイル、ジレンマ

今年は特に世界各地で猛暑で、もはや私達のライフスタイルを変えないとまずいんじゃね、レベルまできてる。危機感を持つ人は、決して少なくない。

けど一般的なクリスチャンは、人権、人道問題に比べると、これらをあまり気にしてるようには、見えない。

私は自分で大した事何もしてないから言える義理もないのだろうけど、元々環境に関心がある身として、クリスチャンが環境問題に関心がないって事が、どうも引っかかる。
関心があるクリスチャンも一部にはいるけど、やはりそれは少数派に見える。

だからかな、いつもモヤモヤするのって。

それと、うちの教会は、食前のお祈りの時に、神様と、料理を作って下さった方とに感謝する、といつも言う台詞の中に、
貴重な命を捧げてくれた動物達、植物達に対する感謝、がない。

そう、自分も感謝を忘れがちだから、人の事は言えないけど。。

人間の命を繋ぐ為に、他の命を頂いて生きている、その事についての感謝、がクリスチャンにはないのかなぁって。。

神様は人間を特別な存在として作られたから、その特別な存在に対して他の動物や植物が命を捧げるのは、当然て考え方なのかな。

環境問題含め、命に対するその視点の違いにもモヤモヤする。

あとつまる所、世界中の人々に福音を伝える=宣教が神様の命令で。
それに従うのが、人間の幸せだという事だそうなのですが。

それじゃ、やっぱり「この道しかない」になるので自由じゃない気がしてしまう。

自由に生きる事を許さない考えは、やはり息苦しい。

政治にも社会運動にも迂闊に関われないし、自分の自由には行き来も出来ないし。

無論、環境問題を考えたら人間や物が自由に行き来する事がいいとは言えない訳だけど。
でも資本主義は認めているから、自由貿易肯定な訳だ。すると、そもそもがエコとは言いがたい。(アーミッシュはその点、徹底しているのですごい)

そしてクリスチャンは、宣教のためならどこへでも行くから、やはりエコとは言えない。。

つまり、クリスチャンとエコは最初から両立しない訳ですね。
そこも引っかかるんですよね。

地球が滅びる前提で、エネルギー消費し続けてる存在なのかな?
と、思ったりします。

いや、他の人間も基本的にはそれは同じなんだけれども。

つまり私の今抱えているジレンマは、
自由と尊厳を求めて生きる人間という存在が、環境とバランスを取ることは難しいのか。

そして、何よりも難しいのが、欲望、孤独のコントロール、人間関係であり、価値観や考え方の違い、資源や領土にまつわる争い、これらの余計な問題を抱えてしまうことだ。

あと、日本人の危機感のなさ、にもモヤモヤすることも、しばしばある。

たとえば、ニホンウナギが絶滅危惧種になっているのは、前からニュースなどでもしばしば報じられているところだが、ウナギを食べるのを控えよう、とはならない。

ニホンウナギがダメなら、他の地域からウナギの幼魚を連れてきて、養殖すればいい、という発想。

土用の丑の日、を風習だから?と続けている。。。ノルウェーだったか、同じウナギ好きの国でも、ウナギ風味の代替品に変えて、それでみんな食べてるというのを見た。日本でも、どうしてそういうことを出来ないのだろうか?

職場でも、丑の日だしこどもたち好きだから、奮発しちゃった、と嬉しそうに言うお母さん達・・・
うーん。。。その裏で、色々な人達が苦労している事とか、ウナギがもう絶滅寸前であることとか、って考えないのかなあ、って。ニュースで言ってるのになあ、って。

悪気はないんだろうけど、悲しくなる。

そういうのって、無意識なんだよね。気付けば、変わってくれるとは思うけど。

日本は自然が豊かで、森も水も豊かなところなのに、なぜか、そういう観点が抜けちゃってる人も多いんだよね。そこが複雑なんだ。
報道の仕方もだし、そもそも、そういうものを管理しているはずの、水産庁にかなり問題ありだと、以前から思っている。

こういう時、
「ウナギは私も好きだけど、今、絶滅しそうになってるから、それもちょっと心配だよね。ノルウェーでは代替品がウナギの代わりに流通してるんだって!」
とかさらっといえたら、いいのにな。

でもそういう事を言ったら、引かれるのかな、、そう考えちゃうと言えないんだ。

自由と尊厳のあいだ

自由に生きたい。

私をはじめとして、多くの人が願うことかもしれない。

ではしかし、自由とは何か?

最近、というか割とよく考えること。

人は自由であることを願う。

その一方で幸せになりたい、安心して暮らしたい。平和に暮らしたい。

そんな願いを持つ。

幸せとは何か?自由とは何か?

人生に行き詰まりを感じて洗礼を受けてからも、しばしば考える。

そして、自分だけじゃなくて、周りの人が苦しんでいる時、悩んでいる時、
みんなが幸せに平和に、そして自由である為にはどうすればいいかと考える。

同時に、地球に生きている他の生き物や環境のバランスについても考える。

感受性の敏感な人達は普段から感じ取っているかもしれないけれど、都会に暮らす私のような人間は、しばしば忘れがちだ。
人間は他の生き物の命を頂いて生きていると言う事。そして、多用な生命体と環境の絶妙なバランスの上に、私達は生かされているという事。

美味しいものを食べたいというのは自然な欲求かもしれない。でも、その上には沢山の命があるのだということ。。。ただ美味しいものを食べて楽しんでいる間には、気付かないけれど。

自然が猛威を振るうとき、壊れていく時、人間達に危害が及んで、誰かが警告を発してくれて、私達はようやっと気付く。ああ、私達は、人間だけが生きている訳じゃないのだと。この自然に、様々な生き物の間に、生かされているのだと。

けれど、やはり美味しいものは食べたい。
便利に快適に、安全に暮らしたい。

これらの願望が単なる欲望か、それとも当たり前の権利なのか、どこまでを権利とするのか、どこまでをセーブするのか。

少なくとも、みんなが自分の思い通りにやりたい放題やれば、この地球も世界も安定を保てないだろう。

上手くバランスを取ることは出来ないものだろうか。共に生きていくために。。。とも思う。

そして、面白い事に、便利で快適である事、限りなく自由である事、自分の思い通りになる事が、幸せに繋がるとは限らなかったりする。自由でないから自由の有り難さが分かるし、当たり前の事を当たり前に出来ないから辛い人の気持ちに共感できたりもする。

苦しみには誰も好んで遭いたくはないだろうが、苦しみから学ぶ事が出来るのもまた真実であるのだ。

私がブログを書こうと思うタイミングというのは、世の中で起きている事について危機感を持ったとき。違う!こんなのよくない・・・おかしい、とか納得できないと思ったときだ。

要するに、ポジティブじゃないときに始めるのだ。

だから書く内容は基本的に、硬くて重めかもしれない。
そしてその内容にはしばしば矛盾もあるだろう。簡単な解決策がある訳でもない。

けれど、根本には、幸せでありたい、自由に生きたい。
そして、なるべくみんなの幸せも大事にしたい。それが根底にある。

夢を見たい、平和とは守るものではなく、作り出すものだ。

(洗礼を受けた身であるが、聖書をきちんと理解している訳でもなく、その事実をオープンにすると色々誤解を招くかもしれないので、自身がクリスチャンであると言う事は正直憚られた。が、あえてここではオープンにしながら、自分の疑問が解消したら都度、また公表するスタイルにしようと思う。)

クリスチャンであることは、自由とは対極にあるように思える。
窮屈に生きるように思える。

だからこそ日曜に教会に行きながらも、仕事に通いながらも、
どこかで、いつも、違う自分の人生を夢見ている。

というか、元々、環境問題に関心があって、田舎で自給自足して暮らすのが
理想的な暮らしだと思っていた。

同時に、まだ卒業したてだったから、もっと他の世界も知りたいと思った。

まだ都会暮らしで、自由を楽しみたいと思った。

田舎に移ってしまったら、閉鎖された空間の中で、それもクリスチャンである自分にとっては、神道や仏教の文化の中で暮らしている人が多数の中では、生きづらくなるという漠然とした恐れがあったから。。。

とかくこの世は生きにくい、とは、私にぴったり当てはまるかのような言葉だ。
なんだか色々考えすぎるし、基本、内向的な自分だから。

それでも、いつか世界を旅したいという夢がある。コミュ力低すぎだし、色々不器用だし、感受性は低いし、物分り悪すぎで、泣けるような自分だけどな。

留学も本当はしたかったんだぜ。ていうか今もしたいし、海外で暮らしたい。

夢を見ることは生きること、そして、本当は羽があったなら、自由にどこへでも飛んでいけるのにな、無駄なエネルギーを使わずに、自由に幸せに生きる道をみつけたい。

はじまりのうた

このブログを開設したのは、秘密保護法が強行採決された後で日本がどう変わっていくのかを記録しておきたかったから。2013年12月6日。

でも、あの時は、まだ、上手く言葉に出来なかった。
というか、完璧を求めすぎていたのかもしれない。

あれから、5年。

なぜか自公政権は歴史の節目の日、それもネガティブな日に、わざとなのか、こういう強行採決のような事や人の気持ちを踏み潰すような事をしてくる。
そう、辺野古の土砂投入もそうだ。

これは意図的になのだろうか。それともたまたまなのか。

どちらにせよ、この日が歴史的に意味を持つ日である以上は、色々な意味で忘れる事の出来ない日になるだろう。

私自身、尊厳と自由の狭間で矛盾してるこの思いを綴っていきたい。

その思いでこのブログを開設します。