2024年8月14日水曜日

新しい生活と、少しずつの、、、変化

ご無沙汰しておりました。
昨年結婚して、少しだけ以前と変わった生活になり。 変わったことよりも変われていないことの方が多いけれども、 本当に、少しずつ、少しずつだけど変われていることもあるようです。

 こうして誰かに手紙を書くように文章を書く方が性に合っていることも、 既にずいぶん前に気づいていたのに、今更、ああ、そうだった、と改めて実感していて。 
今後は、このお手紙方式で行くことが増えるかもしれません。

そういえば、とある作家の人が姉妹で送りあっていた公開書簡も、割に好きだったことを思い出します。 

そして、今までずっとできずにきたけれど、いつか向き合わなければいけないだろう・・・ 考え方や価値観の違う人との付き合いについて、今日は少し書いてみたいと思います。 

 赤の他人ならまだ許容できても、問題なのは身近な人や友人・知人にそういう人がいること。 これは、個人的にかなりキツイです。言葉に出すのさえも。そして心がズキズキと痛みます。

 だから基本的に他人に話すこともできずここで書くこともできず、長年自分の心の中にしまってきました。 でもパートナーと再会して色々衝突もしながら色んな話をする中で、カタツムリのような歩みで、ようやく書ける所まできたのかなと思います。

 当方は、基本的なスタンスとしては、持続可能な社会作りに関心があり、 核兵器は勿論のこと、軍隊を持つことに懐疑的で、原発もなくなってほしいと思っている立場。
 そして資本主義も色々問題があると感じていて、そうではないオルタナティブな経済のあり方を求めている側面もあるので まあ、一般的な「普通」の日本人からしたら、絵に描いたような日本版リベラルという所か。

  だけど実際は普通に会社員として働いているし、ここ10年位は色々な人の意見とかも聞いてきて、 いわゆるリベラル派の一部が起こしている問題も色々目にする中で、今は社会活動からは基本距離を置いているしほぼ何もしていない。

 結婚してそんな時間も取りづらくなった、あとはパートナーのスタンスが自分と違う事で喧々諤々な話をする中で(パートナーは消耗するようだが) 自分の考えが正しいとも限らないこともあるのかも、とも思うようになったこともある。

 よくも悪くも、多面的な意見を聞くことで、明確な答えを出さないようになった、 そして行動しなくなった、というのが今の状況である。 

 だが、ベースの考えが変わった訳ではないし、 人と接する時は過去の傷だったり、割り切れないものを色々想起することが多々ある。 

 例えばアメリカ人と結婚して日本に宣教師一家として派遣されてきていて、 うちの教会にもしばらく滞在していたファミリーの奥さん。 以前は比較的仲が良くて、色々な相談に乗ってもらったり、お茶したりする位の仲で色々気にかけて頂いていた。 社会問題に私が関心がある事にも理解を示して下さるような方だった。
拠点を移してからも連絡を取り合い、ビデオ通話や向こうの交流会に顔を出したりもした。

 だけど彼らは地元の米軍基地に勤めているアメリカ人とも交流を深めていて、それを国際交流の一環としても活用しているようだった。 それを知った私は現場で働いている人たちの考えが知りたくて、行っていたところもあった。 だが当人たちは基本英語しか話せなく、個人的に話をする機会があった際も、沖縄の基地に関する意見を聞く事はできなかった。

ある時、メールで奥さんの方に沖縄の基地問題についてどう思うか考えをぶつけてみた所、強烈に反論された。彼女にしてはすごく珍しいことだった。 彼女からしたらそのような政治的な意味合いで米軍従事者に近づいてほしくなかったらしい。 また彼女はこうも言った。
軍事の事は神さまの領域だ、私たちが入り込んで何かする領域ではない、と。

それと、彼らが抱えている精神的なストレスは相当なもので、彼らをサポートしているメンターのクリスチャンから 度々話を聞いているらしく、そういう現状も知っているのか、とも言われた。

 だが、私からすれば、長年沖縄の人達がおかれている立場の方が余程酷く重いものと感じているので、当時かなりの憤りを覚えたが、すぐに反論はできなかった。
 残念ながら、あの時のメールのやり取りは中々に貴重だったのに、当時のメールの記録はすべて消えてしまっていて読み返すことはできない。

 それから何年か経って教会の集まりで再会した時、涙ながらに彼女から謝られた。 
ただ、それは私に対してではなく、沖縄の人に対して謝ってほしいと思ったし、 私も私で、配慮が足らないことをして悪いことをしたな、、、とも思いつつ、あれが彼女の本音なんだろうな、とも思った。 

そしてその謝罪の場では関係性が修復できたかにも見えたが、あの事件以来、未だに彼女から私に個別に連絡が来ることはない。

 きっと「ヨソモノ」でしかない私はお呼びではないという事なのだろう。 
自衛隊員との触れ合い事業みたいのに抵抗感があるのと同じく、 米軍従事者の人達と日本人との交流の機会を提供することについて、個人的には疑問を持ち続けてはいる。

 もう1つはデンマークに一緒に行ってお世話になった子が、自衛隊員と結婚したこと。 
これは個人的にかなりショックだった。 今日本が憲法9条の理念など綺麗さっぱり捨てて、軍備増強に向かい続けている中、 その一端を担っている立場の人と結婚するのが信じられなかった。 

しかも多少なりとも思想や考え方が近いと感じていただけに、結婚報告があった時も お祝いの言葉もかけられず、いいねも出来なかった。
付き合っていると聞いた時も、何も言葉を発することができなかった位なのだ。
勿論、自衛隊員も自国の平和を守る為にいるのであり、一人一人は真面目に取り組んでいる人が沢山いるのも理解しているつもりだが、、、軍隊は本当に難しい職業だと思う。
彼女の幸せは私も願っているし、知り合い程度で何かを口出しする立場にないので、これ以上どうすることもできない。かといって素直に祝福する気持ちにはなれなかった、というのが正直な所で今もそのままだ。

 そして、私が学生時代お世話になったホストファミリー。 ずっと、元気にしているかなあ、と心の片隅で思い出しながらも、帰国後すぐに連絡せず3か月後にようやく写真と手紙を送るが 反応がなく、嫌われたと思ってそのままになっていた、ホストファミリー。 

アメリカ人の友人からの後押しもあり何十年かぶりにメールを送ってみたものの、宛先不明で戻ってきて、でも友人に探してもらって 消息を知ることができた。 ようやくFacebookでそのアカウントにたどり着くことができたけれど、 友達になっている人の中に明らかなイスラエル支持者がいてショックを受ける。 そんな考えの人と友人の人達に連絡を取ることがためらわれた。 ずっと恐れていたことは彼らがトランプ支持者だったらどうしよう、という事だったが、それを超えてきた気がして。

だが、必ずしもそのホストファミリー自身がイスラエルを支持しているという保証はないし それはそれ、これはこれ、と割り切って、連絡すれば良い、と同じクリスチャンの母は言ってくれた。 が、やはり怖い、というのが正直なところだ。

今の私の人生の課題は、不器用さといかに付き合うかという事と、
この人との向き合い方の所にあることは他ならない、大事な課題だ。

センスとかいうこの不可思議なもの

 昔から、美しいものとか綺麗なものとか楽しいものが好きだけど、

モノ選びとか、インテリアとか服装選びとかがものすっご下手で、いつも買い物に失敗する。そしていつもワンパターン。

買い物で色々悩むのは嫌いじゃないが、結局どれ選んだらいいか、あと買ってもその後、どういう風に配置したりアレンジしていいかが分からなくて。

絵を描くのも好きなのだけど、創造性がかけているため、うわこれいい!!っていうやつを、ただただ、摸倣する事しかできない。

当方、ファッション雑誌とかインテリアとか見て、こういうスタイルが好み!好き!ってのは、ちゃんと持っている。持っているけど、見たままを、そのままを、真似しか(文字通りの”摸倣”で同じもの買うとかしか)できないんですよ。

元々はクリエイティブな才って奴にすごい憧れがあるんよね。

色々総合するに、表現することがどうも好きらしい。今も昔も朗読や演劇は好きだ。でも演劇は自分ではやりすぎ感があってやろうとまでは思わないけど。だから朗読が単純に好きかも。ラジオDJとかでだべってんのに憧れるんだよなー。今も。

あと写生なんかも、やっぱりセンスなんよなーとか思って。小学生の時に写生してて多少褒められはしたけど丁寧に書いてるからだけであって、センスある人の写生ってのを見るとこれと同じ真似は出来ねえ、、と絶望したものだった。

なんだろ書き出し方が違うっていうのかな、どういう風な流れと手順で書いていくとああなるの?ってのにすごい興味が惹かれるけど、結局同じ事は出来ない、みたいな。まあちゃんと専門の勉強すれば多少は出来るようになるのかもしれないが。。。

あと文章書くのも、やっぱりさ才能だと思うよ。勿論努力も必要だろうけど。ずいぶん昔ネットサーフィンしててたまたま見かけたあるブログの人は、あーこの人は人を惹きつける文章を書く人だなって思ってすごくレベルの差を見せ付けられた事があった。あの時、自分は物書きの才能がないと自覚したので、小説家みたいなものを目指す事はあっさり諦めた。だって何を書くのはよくて何を書くのがまずいのかの区別つかないしさ。このブログが正にそれを体現している。

写真取るのも昔は好きだったけど、他人とのレベルの差を見せ付けられるにつけ、まあ、自分がやってもねえ、って気になるし(なんか撮っている自分が好き、みたいなのないっすか?)

スマホで写真撮るのが手軽になった分、そこまでやらんでもいいかな、という気になったりで。インスタみたいな洒落たもんはやらん(新しいものを取り入れるのが苦手)なので、ついったーで何人かセンスある人フォローして、素敵なのは写真保存して真似ようと思ってる。

まあ、凝ったことができない性分なんでね。

この間、すごくモヤモヤした話なんだけど。

私は昔からセンスのある生活にすっごく憧れているんだけどさ、そういう能力が一向に伸びなくてそういうのに真剣に悩んでるのに、

とあるツイッタラーが、このセンスは先天的な才能じゃなくて努力して見に付けたんで、人の努力して勝ち取ったものを気安くタダで教えてみたいなのってどうなん、

みたいな発言しててさ。

確かに気安く教えては配慮の問題として正論かもしれないけど、すごくモヤモヤした。

だって、自分自身、インテリアの本とかファッションの本とかそれなりに読み込んできた人間だけど、一向にセンス向上してないんですよね。努力して未だ前進する見込みが全く見えない人間にしたら、正直、「は?結局センスは才能だよ、俺のアップデートされないぐちゃぐちゃの部屋みろや」と思っちまうわけ。

というか、これすごい可愛いとかストライクってのは感覚であって、それは分かるけど、それを自分なりにアレンジしてとか部分的に取り入れるとか、そういうのができないんだよね。

だからさ、インテリアとか服とかモノ選びとか、コスメでも何でもさ、何をどう学んだらそのセンス身につけられますかね?そう、お金かける所とかけない所のバランスなんかも含めて、だよ。

それが知りたいんだよ。どうしたら月1万で素敵な食事を効率よく作れるのさ?

恋人と行くおでかけ先のセンスとか、プレゼントのセンスとかさ、どうやって身に着けるん???

どうしてさ、センスある奴は恋人と一緒に暮らす部屋を二人で素敵に作り上げたりできるんだよ。

私だってそうしたいんだけど???

って怒りをどこにもぶつけようがないから、ここで吐き出す。

まじで、センスって奴がなくて泣けるわ。素材は悪くないらしいのにさ。。。あーあ。。

すげー自分で持って生まれたものを無駄にして過ごしている気がするよ。

もういい年なのに、なんでこんなに、成長しないんだろう。

あと、好きな曲でめっさ踊りたいけど、振り付けも覚えらんねーしもう色々な。

だからせめて、好きな曲で癒されよう・・・あと曲のセレクトが素晴らしいって認めてもらえたらいいな。面白い人だって思われたい。

せめてその位は。だって今更海外移住もできないって先が見えてる。

でもせめて、センスある暮らしがしたいんだ。

だから、神様、私にセンスを下さい。

そして、最後に叫んでみようじゃないか。

センスオブワンダー!

結局のところ色んな可能性があったのに、何一つものにできないでいる自分に、いらつくのかもしれないね。

そういうチャンスをモノにできる人とそうでない人ってのもやっぱり才能なんじゃないだろうか。人生は選択の連続な訳だけど、その選択で間違い続けている気がする。


2021年8月28日土曜日

あの時、なぜ私は。。

少し前に話題になっていたけれど見れていなかった、

「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記(映画ver.)」を見てきた。

最初の入りから、あれ、と思った。菜の花さんがバイトしていた料理店。。

引き取る会のスタディツアーの時にウシさんに連れて行ってもらったあのお店によく似ていた。那覇市で沖縄の懐石料理屋といえば、そんなに数は多くないし、多分そうなのだろう。

菜の花さんの顔立ちは、正面から見るとそんなでもないけど、後ろから見た時の形が私と似ているなあ、と思って見ていた。

彼女の真面目で誠実な人柄、繊細さやセンスは私とは全然違うだろうけれど、彼女の歩んできた道のりや考え方のベースにあるものは、多分私と似ている所があると感じた。

珊瑚舎スコーレは、正に日本の(というよりも沖縄の)フォルケホイスコーレと呼ぶにふさわしいものだし、私の人生がもし、もう一度やり直せるのなら、私は彼女のような経験がしたかった。

意外だった事は、菜の花さんが沖縄にいた3年間でずっと問い続けていたものに対する、答えだった。映画を通して、日本人の沖縄に対する無意識の差別について、菜の花さん自身の言葉から度々感じ取ることができるのだが、パンフレットの冒頭に書かれていた、菜の花さんからのメッセージに、端的に極めてストレートにその事が書いてあった。

「自分は誰なのか。どれが正しいことなのか。沖縄で生活すればするほど揺らいでいった。わかっていたはずのことが、どんどんわからなくなっていった。しばらくの間私は、沖縄に行って沖縄で起こっている問題を解決したい、何か力になりたい、と思っていた。だけど、それは間違っていた。なぜ変わらない?なぜ無視される?なぜ、なぜ、そう問うていたら、自分にぶつかった。私は誰だ。」

彼女は、スコーレで沖縄の文化や言葉を学びながら、沖縄戦の歴史を本ではなく実際に経験した人と共に学び、直接話を聞き、高江や辺野古で出会った人達、、それは条件付き賛成派の人も含めてだ、、から話を聞いた。そして、それと同時進行で、沖縄で今も毎日起きている現実を、目の前で何度も突きつけられる経験をした。それは本土にいると見えにくい現実が目の前で日々起きているという事実だった。

沖縄と合わせて、もう一つの大きな伏線として描かれる重要なものがある。

それは、彼女の出身地である石川県にも、かつて米軍の施設があったという事。その土地の名前を聞いて、私は思わず声をあげそうになった。

内灘。そう、戦後の日本で、かつて米軍基地闘争に火をつけるきっかけとなった、あの内灘闘争があった場所は石川県なのだ。私は、菜の花さんが沖縄に来る事になったのには、何か運命付けられたものがあるようにも感じられた。

そして、内灘闘争にかつて関わった人達からも、彼女は話を聞いた。

内灘闘争での合言葉は「金は一年、土地は万年」という言葉だった。

内灘闘争でたたかった人達も、沖縄で声をあげ座り込んでいる人達も、特に猟師さんの思いは、、皆同じだ。この海をこの土地を返してほしい、と。安心して暮らせる環境を返してほしいと。

ただ、それだけなのに。

そして彼女は本土から無くなった米軍基地が、本土復帰まもなくの沖縄に移転されていった事も知る。

その中で彼女は葛藤し、そして答えを見つける。

「私は誰なのか、ようやくわかった。自分が嫌なものを他人に押し付け続けている一人だった。」

問題の根源は沖縄にはなかった、と彼女は気付いたのだ。

そう、自分自身の中にあったという事に。

引き取る会の考えも、菜の花さんの考えも、自分の中にある差別と向き合う、という根っこは同じだと思った。

でも、彼女は沖縄の基地を本土に引き取る、という活動を知っているだろうか。

知っていたとして、彼女はこれについてどう思うだろうか。と気になった。

映画を見終わった後、会場で偶然知人と会い、引き取る会の活動の話をしてみたが、あまり理解されていないようだった。。んー、映画で何を感じたのだろうか。。

日本政府の酷さに共感しただけ?

と思ってしまった。

そして同時に、私も自分を、自分の足元を変えなければいけないという事は分かっていて、それが出来ていないことを改めて思った。

それと、彼女の生き方に私は憧れるが、彼女の真似は到底出来ないという事も。

だって、スコーレで彼女は同級生と普通に接している、私にはそれが出来ない。

街頭で県民投票の手伝いで声かけしていたような事が到底無理。私はどうしたって、人との間に分かり合えない、通じ合えない、壁があるのだ。

そして他の人に感じられることが、理解できることが、私には感じられないし理解できない。海外に行った時も、全部そうだった。

私はずっと、ずっと、永遠にそうなのかもしれない。。。通じ合えないと変えられないのに。。。

でも、前みたいにもういちいち悲しんでいるのは時間の無駄だよね。

時間は有限、いつまで生きていられるかも分からないのだし。

とは思っても、結局の所、リスクを負った行動ができずにいる自分が、心底情けなくもなる。本当はこんな文章書いてないでやるべきことが、沢山あるはずなのだけれど。

映画を見て、菜の花さんが丁度沖縄にいた頃、時を同じくして、私もずっと沖縄の事を追い続けていた事を思い出していた。改めて映画を見る中で、これだけの事が沖縄で起きていた事に改めて驚きを禁じえなかった。そしてその度に「本土」の人間から発せられる冷たい、そして醜い言葉の数々を思った、、政治家が堂々と沖縄を差別しているのに、国民が差別しないわけがない。。。と思った。

そして、2016年に米軍属による女性殺害事件が起きた時の、玉城愛さんの姿を見て、あのスピーチを思い出していた。「日本本土にお住まいのみなさん、、第二の加害者はあなたたちです。しっかり沖縄と向き合って頂けませんか。」この事があり、そして、その後に、国と県の裁判で沖縄県が敗訴したことを受けて、私のスイッチが切り替わったのだ。

あの時、なぜ私は、引き取り運動に関わろうと動いたのか。その決定打は2016年に起きたこの2つのことが大きかったと思った。

憲法9条を世界遺産に、に感動して単純明快にそう考えてきた私だけれど。

映画の最後に、菜の花さんがスコーレのみんなと歌いだした曲にも、え?となった。

コシシケレリ・アフリカだ。

そう、農村塾で教えてもらった大切な曲。

人種差別に対してアフリカの人達が声をあげたときに歌った歌だ。

アフリカを、彼女は沖縄に、置き換えて歌った。

「神よ、沖縄に祝福を。」と。

私もいつか、彼女のようになれるのだろうか。失った時間は取り戻せないけれど。。。

旅して暮らしたいなんていいながら、沖縄への責任を果たせるだろうか。。。

翁長さんの姿につい涙がこぼれる。


2021年6月13日日曜日

デンマークよ、お前もか。

 最近、EUの中でかなりの騒ぎになっているという、デンマークが、アメリカの情報機関にEU諸国の情報を長年に渡って横流ししていたって話。

正直、日本国内で酷い事多すぎて、色んな事に感覚が麻痺しているので、目にした時、感情が殆ど動かなかったというのが本音。

だけど、あー。。。デンマークよ、お前もかっていう感想でした。

で行き着く所は、神様がいないと、どこも腐るのかな、って事で。

しかしながら、神様がいた所で、軍隊や銃を堂々と保持している国も少なくなく、まあ、完璧はないんだなーって事ですけど。そもそもちゃんとした信仰がないと意味ない訳で。

結局の所、人間のやる事はつくづくも、下らない、としか思えないのでした。

命の選別、建前ではいえなくても、結局行われているものね。

勿論それはやりたくてやっている訳じゃなくて、そうせざるを得ない現場の苦しみも、わかってはいるつもりで。でもそれを簡単に仕方ないと切って捨てる人間の思考は私には理解できない。

それも神様の思し召しと思って割り切るしか、道はないのだろうけど。


2020年12月19日土曜日

なぜ「全ての政府は嘘をつく」のか、そしてなぜ人は嘘をつくのか

 昔から割とドキュメンタリー映画が好きなのだが、(ドキュメンタリーとジブリしか好きじゃないともいえる)、最近気になっていたタイトルの映画。

「全ての政府は嘘をつく」

まあ、内容は大体想像がつくし、こういうのが好きなタイプの人間が食いつきそうなタイトルだなー、よく考えられているね、と穿った見方もしたりして。

華氏9.11とか、六ヶ所村ラプソディーとかそういうの見てた辺りから、政府なんて信用ならん存在だ、というのは嫌という程感じてきましたのでね。

まあ、極めつけは沖縄の米軍基地の存在ですわ。ほんまに驚きますわな、米軍の建前と本音の違いには。それを支えているアメリカ政府と日本政府にもね。あと日本の入管施設も本当に酷いです。こういうのを見るにつけ、政府って碌なものじゃないなと思ってしまいます。

で、ここに来て思う事なのだけれども、政府ってのは往々にして色々と隠したがるものなんですけど、それって、なんでなんだろうなあ?とふと疑問に思いました。

で、このお題目が思い浮かんだとき、なんか色々面白く思考できそうだなあ、なんて思っていたのでいつかこのタイトルで文章書いてみたいと思って。で、それでまた半年位経ったと。

ところで、このなぜ全ての政府は嘘をつくのか、って事は、別にふかーい考察なんてなくっても、ごくシンプルに答えが出るんですよね。

「なぜ全ての政府は”嘘をつかなければ”ならないのか?」と考えると単純な事なんですよ。

それはつまり、政府を動かすのも、その国に存在している存在も、人間だから、なんですね。

そもそも、人間という存在は嘘をつく生き物なんですわ。不都合な事には目をつぶって生きて生きたいし、自分達の信じたいように信じたい生き物なんですわ。そして人と比べてはマウントを取り保身に走る。

だから、政府も「同じように嘘をつく」。

逆に、ある程度の嘘をつかないと国内もだし、諸外国との付き合いも中々成立しない現実という所か。まあ、ある意味当たり前の論理ですよね。

で、この思考はおしまい。ってなっちゃうとつまらないので、もう少し考えてみる。

では、なぜ人は嘘をつくんでしょう。不都合な事には目をつぶって生きて生きたいのでしょう。そもそも、自分にとって不都合な事とは一体なんでしょうか。

中国とかロシアなんかはアメリカ以上に酷い情報鎖国だし、人権弾圧もろにやってる国な訳ですけど、そもそもそういう国の政府ってのはどうしてわざわざそういう事するんでしょうね?

鍵になるのは、やはり「人を信用しているかしていないか」って所ですかね。

信用していないと罰則や規制で徹底的にコントロールして痛めつける。情報を公開してオープンにする動きと逆の事をやろうとする。まあ、ルールがないと無秩序状態になるのもその通りなんで、ある程度のルールは必要な訳だけど。ルールありき、聖書で言う律法ありきになるとガチガチして息苦しくて窒息しちゃいますわな。激混み電車で動けないアレと一緒、あの電車に乗ってて、よく発狂しないよね。。だから、日本は息苦しい国だ、ってよく言われる訳ですけれども。日本も本質的にロシアや中国と似たようなものだって理解できている人、少ないですね。

で、話を戻すと、誰を信用していないか?って所の度合いの問題かもしれないけど、アメリカも結構今は監視社会だし信用してない度合いが増しているけど、それでも時間経ったら機密文書公開してくれるしね、多少ですけど。

まあ、中国とかロシアってのは基本的には人を全体的に信用していない国なんだろうなと。

あと、国の単位が大きすぎると、自由にやらせすぎると収拾つかないから。

かなと思っている。だから、昔から個人的に思うのは、大きな国は駄目になる、世界全体が小国であるべき、ってのが私の持論です。人が多すぎるとまとまるものもまとまらんし、零れ落ちる人が増えるし、強力なパワーコントロールが働かないと国がまとまらないジレンマに陥る。中国やロシア、見てれば分かるよね。

かといって、小さければいいかというと北朝鮮みたいなトリッキーな国もあり。

でもあれがトリッキーなのは、周りが敵に囲まれている、という思想があるからああなるんですよね。だから、アメリカとか余計な国がいなくなり外圧恐怖と自分達の生存が確保されるなら、あそこまでにならなかった気がしますね。

あと、まあ、自国が上手くいっていない不祥事を外へ不満を向けさせる事でのガス抜きというよくある手法。はあ、人間ってーのはまじでつまらん生き物だわな。。。

しかし、政府が嘘をつかない、世界ってのは構築できないものですかねー?

デンマーク辺りなんかは、傍から見れば程度なんかも分からないけど、割とその辺り上手くやっているなーと思ってて、あーいう国に住みたいなーって思う。デンマーク行ってみて思ったほどじゃなかったけど、でもあの国・・・まじで美しいなーって思った。日本の自然とか構成と全然違う。一度でいいから北欧に暮らしたいなあ…でもま、今回のコロナ対応で、スウェーデンに関しては、イメージダダ下がりしたなー。残念だわね。フィンランドかデンマークかなー。

それにしても、日本にはつくづく愛想が尽きてきたな。

部分的に見ればいい人ばかりだよ。でもね、無意識に変な思想とか考え植えつけられている人が多すぎて嫌になるよ。あと、日本人は感じ取りすぎる、空気を読みすぎるんだよ。程ほどに鈍い方がいい時も割とあるよ。。電車でぼーっとさせてほしい。仕事で集中させて欲しい。ただそれだけ。

あとさ、政治家の不正に対して、批判からは何も生まれないっていうわけの分からない思想ももういい加減やめたら?単なる批判じゃないよ、悪い事したら責任取らせないと法治国家じゃないよ。因果応報っていうのをきちんと法律に沿って実行しないと、感情で擁護してどうするの?

ではでは、またっ☆



2020年12月14日月曜日

私の不器用さについて

自らの性格や特徴を説明する時に「 不器用」という表現があるけれども、それだと何だかしっくり来ない。人を不快にさせる、イラつかせるのが得意な人って言った方がいいかもしれない。

(ってかこの説明だと、ひろゆき氏みたいだな。。笑。まあ彼はイラつかせ度が突き抜けてるし、あれでキャラが成立してるからいいんだけど)

本当に自分って人間が嫌になるときがしばしばある。

自分の言動が人を不快にさせている、と感じる時。緊張感を与えているとき。

最初は戸惑い、次に私がどんな悪い事をしたというのか、という怒りを感じ、そして最終的にはここにいるべきじゃないのかもしれないと思い、そして仕事も人と関わる全ての事も、辞めたくなる。本気で。

こんな事を言っても、他の人に中々信じてもらえないのだけれど。

電車に乗っている時も、道を歩いている時も、近くに人が来る事や人と目を合わせるのが怖い。人が近くに来ると反射的に緊張してしまう。

対人恐怖症というよりも、どう反応していいか分からないからだ。

昔、マラソン大会に出る為にジョギングをしている時期があったのだが、人とすれ違うのがとても嫌だった。普段から、道を歩いていて人とすれ違う時に緊張するのだ。

それは、何故かは分からないけれども、人を不快にさせる何かが私にはあるらしく、近くにいると、突然舌打ちされたり、嗤われたり、咳払いされたりするからだ。

クラスでもいつも浮いている存在だったし、しゃべらないと気味悪がられたし。そもそも多人数の人がいる空間で、誰にどう話しかけていいのか、どう振舞っていいのか、分からなかった。

今でもそうだ。

だから仕事場でもよく怒られた。今はおかげ様でそういう事は減ったけど。

こういう人って他にいるのだろうか。

1人でカフェに入ってくつろぎたくても、周りに人がいるとその人に不快感や緊張を与えているのが分かる。電車でもそう。そしてその人達は大抵苛立ちを露にしたりため息をついたり、席を移動したりする。

そしてその度に私は疲れてしまう。

だから、基本的に人のいる場所に行きたくないのだ。

カフェだけじゃない。普通に道を散歩する事も、どこかの集まりに参加する事も。人と一緒にいる、という環境で上手くいくことが滅多にない。

そういう事が出来る環境にいるのに、むしろやりたいのにも関わらず、人と仲良くしたいし上手くやりたいのに出来ない辛さを、誰がわかってくれるのだろうか。

結局、グレーゾーンだと言われながら、発達障がいとはちょっと違うジャンルだとか言われながら、発達障がいの特性があるからなのか。

普通の人と同じように見られるから尚更辛い。

普通じゃない事も辛いのだけど。

そして一番怖いのは人の信用を失う事・・・最初はすごく気に入られても何かのきっかけで人を怒らせ、返答に行き詰まり、そういった諸々の事で人が離れていく。

誰かと何かをする事もろくに出来ないから、誰かと出会って関わる事も正直怖い。

だってその先に壊れることが見えているから。

一体全体、私はどう生きていけばいいのだろう。いつも考えている。

そしてその明確な答えは出ないまま、ダラダラと日常の延長を続けている。

だからいっその事、今の生活を全て辞めて、畑を耕して暮らしたい。シータちゃんみたいな暮らしがしたいと本気で思ってしまうのだ。そんなに都合よくはいかないのは知っていても・・・いつか海外移住したい。

その為には、一刻も早く基地問題に係る植民地主義を解決したい。

って結局そこかよって単純な自分がいる。

無視したい、忘れたい。でも忘れたくない。その狭間でいつも揺れている。


悪い時代だ、はコロナだけなのか?

うちの教会の年に一度の合同礼拝がリモートで行なわれた。

代表牧師の挨拶で、悪い時代だからです、のフレーズが使われた。

悪い時代とはどのような事か分からなかったが、コロナのことだったのか、と思ったと。

しかし、今の政治状況を見ていて、何も感じないとしたら、あまりにも鈍感ではないだろうか?

と感じてしまった。(まあアメリカ大統領選のようなことがあると迂闊に政治的な事は言えない気持ちも分からないでもないのだけれど・・・)

そもそもコロナの前からこの国は、この世界は悪い時代に入っていると言えないだろうか?

アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮・・・そして日本・・・正直、この時代によくもこれだけ酷いリーダーが上についているものだと思わざるを得ない(アメリカは未だ混乱が続くもののようやく混乱に一応の終止符が打たれそうだが・・・それにしてもドナルド・トランプ氏があそこまでみっともない人物だとは思わなかった・・・。腐ってもクリスチャンを公言しているのだから尚更・・・毎日驚愕している・・・心の底から残念でならない・・・)

一体何をやっているんだろうな、人類、と。

その一方でこの危機において素晴らしいリーダーもいる。

ドイツのメルケル首相みたいな人。

そしてリーダーだけでなく、どんな立場にいても、正しく自分のやるべき事を理解して動いている大勢の市井の人達。

これこそが希望だと思う。そしてこのような危機には、正しく立ち向かえる代表者を選ぶ事は大事だと改めて感じている。

それにしても、コロナウィルスは人間の様々なものを炙り出してくれた。

結局の所、コロナウィルスが悪いというよりも、コロナによって人間の本質や今まで溜まっていた歪みが明確に可視化されただけのように思う。

先送りにしていた問題を今やれ、とつきつけられているような感じがする・・・

コロナウィルスの存在は、何を私達に迫っているのか。それを正しく見極め変化していく必要があるのだと感じる。逆に、正しく見極められなければ、より混沌とした世界になってしまうだろう。

危機に対してリーダー達がどのような言動を取るのか、という可視化もされた。

そして、自分がいかにちっぽけな人間かという事も。。。

他山の石としつつ、本当の希望を持って生きていける社会を作りたいと願う。