2020年12月19日土曜日

なぜ「全ての政府は嘘をつく」のか、そしてなぜ人は嘘をつくのか

 昔から割とドキュメンタリー映画が好きなのだが、(ドキュメンタリーとジブリしか好きじゃないともいえる)、最近気になっていたタイトルの映画。

「全ての政府は嘘をつく」

まあ、内容は大体想像がつくし、こういうのが好きなタイプの人間が食いつきそうなタイトルだなー、よく考えられているね、と穿った見方もしたりして。

華氏9.11とか、六ヶ所村ラプソディーとかそういうの見てた辺りから、政府なんて信用ならん存在だ、というのは嫌という程感じてきましたのでね。

まあ、極めつけは沖縄の米軍基地の存在ですわ。ほんまに驚きますわな、米軍の建前と本音の違いには。それを支えているアメリカ政府と日本政府にもね。あと日本の入管施設も本当に酷いです。こういうのを見るにつけ、政府って碌なものじゃないなと思ってしまいます。

で、ここに来て思う事なのだけれども、政府ってのは往々にして色々と隠したがるものなんですけど、それって、なんでなんだろうなあ?とふと疑問に思いました。

で、このお題目が思い浮かんだとき、なんか色々面白く思考できそうだなあ、なんて思っていたのでいつかこのタイトルで文章書いてみたいと思って。で、それでまた半年位経ったと。

ところで、このなぜ全ての政府は嘘をつくのか、って事は、別にふかーい考察なんてなくっても、ごくシンプルに答えが出るんですよね。

「なぜ全ての政府は”嘘をつかなければ”ならないのか?」と考えると単純な事なんですよ。

それはつまり、政府を動かすのも、その国に存在している存在も、人間だから、なんですね。

そもそも、人間という存在は嘘をつく生き物なんですわ。不都合な事には目をつぶって生きて生きたいし、自分達の信じたいように信じたい生き物なんですわ。そして人と比べてはマウントを取り保身に走る。

だから、政府も「同じように嘘をつく」。

逆に、ある程度の嘘をつかないと国内もだし、諸外国との付き合いも中々成立しない現実という所か。まあ、ある意味当たり前の論理ですよね。

で、この思考はおしまい。ってなっちゃうとつまらないので、もう少し考えてみる。

では、なぜ人は嘘をつくんでしょう。不都合な事には目をつぶって生きて生きたいのでしょう。そもそも、自分にとって不都合な事とは一体なんでしょうか。

中国とかロシアなんかはアメリカ以上に酷い情報鎖国だし、人権弾圧もろにやってる国な訳ですけど、そもそもそういう国の政府ってのはどうしてわざわざそういう事するんでしょうね?

鍵になるのは、やはり「人を信用しているかしていないか」って所ですかね。

信用していないと罰則や規制で徹底的にコントロールして痛めつける。情報を公開してオープンにする動きと逆の事をやろうとする。まあ、ルールがないと無秩序状態になるのもその通りなんで、ある程度のルールは必要な訳だけど。ルールありき、聖書で言う律法ありきになるとガチガチして息苦しくて窒息しちゃいますわな。激混み電車で動けないアレと一緒、あの電車に乗ってて、よく発狂しないよね。。だから、日本は息苦しい国だ、ってよく言われる訳ですけれども。日本も本質的にロシアや中国と似たようなものだって理解できている人、少ないですね。

で、話を戻すと、誰を信用していないか?って所の度合いの問題かもしれないけど、アメリカも結構今は監視社会だし信用してない度合いが増しているけど、それでも時間経ったら機密文書公開してくれるしね、多少ですけど。

まあ、中国とかロシアってのは基本的には人を全体的に信用していない国なんだろうなと。

あと、国の単位が大きすぎると、自由にやらせすぎると収拾つかないから。

かなと思っている。だから、昔から個人的に思うのは、大きな国は駄目になる、世界全体が小国であるべき、ってのが私の持論です。人が多すぎるとまとまるものもまとまらんし、零れ落ちる人が増えるし、強力なパワーコントロールが働かないと国がまとまらないジレンマに陥る。中国やロシア、見てれば分かるよね。

かといって、小さければいいかというと北朝鮮みたいなトリッキーな国もあり。

でもあれがトリッキーなのは、周りが敵に囲まれている、という思想があるからああなるんですよね。だから、アメリカとか余計な国がいなくなり外圧恐怖と自分達の生存が確保されるなら、あそこまでにならなかった気がしますね。

あと、まあ、自国が上手くいっていない不祥事を外へ不満を向けさせる事でのガス抜きというよくある手法。はあ、人間ってーのはまじでつまらん生き物だわな。。。

しかし、政府が嘘をつかない、世界ってのは構築できないものですかねー?

デンマーク辺りなんかは、傍から見れば程度なんかも分からないけど、割とその辺り上手くやっているなーと思ってて、あーいう国に住みたいなーって思う。デンマーク行ってみて思ったほどじゃなかったけど、でもあの国・・・まじで美しいなーって思った。日本の自然とか構成と全然違う。一度でいいから北欧に暮らしたいなあ…でもま、今回のコロナ対応で、スウェーデンに関しては、イメージダダ下がりしたなー。残念だわね。フィンランドかデンマークかなー。

それにしても、日本にはつくづく愛想が尽きてきたな。

部分的に見ればいい人ばかりだよ。でもね、無意識に変な思想とか考え植えつけられている人が多すぎて嫌になるよ。あと、日本人は感じ取りすぎる、空気を読みすぎるんだよ。程ほどに鈍い方がいい時も割とあるよ。。電車でぼーっとさせてほしい。仕事で集中させて欲しい。ただそれだけ。

あとさ、政治家の不正に対して、批判からは何も生まれないっていうわけの分からない思想ももういい加減やめたら?単なる批判じゃないよ、悪い事したら責任取らせないと法治国家じゃないよ。因果応報っていうのをきちんと法律に沿って実行しないと、感情で擁護してどうするの?

ではでは、またっ☆



2020年12月14日月曜日

私の不器用さについて

自らの性格や特徴を説明する時に「 不器用」という表現があるけれども、それだと何だかしっくり来ない。人を不快にさせる、イラつかせるのが得意な人って言った方がいいかもしれない。

(ってかこの説明だと、ひろゆき氏みたいだな。。笑。まあ彼はイラつかせ度が突き抜けてるし、あれでキャラが成立してるからいいんだけど)

本当に自分って人間が嫌になるときがしばしばある。

自分の言動が人を不快にさせている、と感じる時。緊張感を与えているとき。

最初は戸惑い、次に私がどんな悪い事をしたというのか、という怒りを感じ、そして最終的にはここにいるべきじゃないのかもしれないと思い、そして仕事も人と関わる全ての事も、辞めたくなる。本気で。

こんな事を言っても、他の人に中々信じてもらえないのだけれど。

電車に乗っている時も、道を歩いている時も、近くに人が来る事や人と目を合わせるのが怖い。人が近くに来ると反射的に緊張してしまう。

対人恐怖症というよりも、どう反応していいか分からないからだ。

昔、マラソン大会に出る為にジョギングをしている時期があったのだが、人とすれ違うのがとても嫌だった。普段から、道を歩いていて人とすれ違う時に緊張するのだ。

それは、何故かは分からないけれども、人を不快にさせる何かが私にはあるらしく、近くにいると、突然舌打ちされたり、嗤われたり、咳払いされたりするからだ。

クラスでもいつも浮いている存在だったし、しゃべらないと気味悪がられたし。そもそも多人数の人がいる空間で、誰にどう話しかけていいのか、どう振舞っていいのか、分からなかった。

今でもそうだ。

だから仕事場でもよく怒られた。今はおかげ様でそういう事は減ったけど。

こういう人って他にいるのだろうか。

1人でカフェに入ってくつろぎたくても、周りに人がいるとその人に不快感や緊張を与えているのが分かる。電車でもそう。そしてその人達は大抵苛立ちを露にしたりため息をついたり、席を移動したりする。

そしてその度に私は疲れてしまう。

だから、基本的に人のいる場所に行きたくないのだ。

カフェだけじゃない。普通に道を散歩する事も、どこかの集まりに参加する事も。人と一緒にいる、という環境で上手くいくことが滅多にない。

そういう事が出来る環境にいるのに、むしろやりたいのにも関わらず、人と仲良くしたいし上手くやりたいのに出来ない辛さを、誰がわかってくれるのだろうか。

結局、グレーゾーンだと言われながら、発達障がいとはちょっと違うジャンルだとか言われながら、発達障がいの特性があるからなのか。

普通の人と同じように見られるから尚更辛い。

普通じゃない事も辛いのだけど。

そして一番怖いのは人の信用を失う事・・・最初はすごく気に入られても何かのきっかけで人を怒らせ、返答に行き詰まり、そういった諸々の事で人が離れていく。

誰かと何かをする事もろくに出来ないから、誰かと出会って関わる事も正直怖い。

だってその先に壊れることが見えているから。

一体全体、私はどう生きていけばいいのだろう。いつも考えている。

そしてその明確な答えは出ないまま、ダラダラと日常の延長を続けている。

だからいっその事、今の生活を全て辞めて、畑を耕して暮らしたい。シータちゃんみたいな暮らしがしたいと本気で思ってしまうのだ。そんなに都合よくはいかないのは知っていても・・・いつか海外移住したい。

その為には、一刻も早く基地問題に係る植民地主義を解決したい。

って結局そこかよって単純な自分がいる。

無視したい、忘れたい。でも忘れたくない。その狭間でいつも揺れている。


悪い時代だ、はコロナだけなのか?

うちの教会の年に一度の合同礼拝がリモートで行なわれた。

代表牧師の挨拶で、悪い時代だからです、のフレーズが使われた。

悪い時代とはどのような事か分からなかったが、コロナのことだったのか、と思ったと。

しかし、今の政治状況を見ていて、何も感じないとしたら、あまりにも鈍感ではないだろうか?

と感じてしまった。(まあアメリカ大統領選のようなことがあると迂闊に政治的な事は言えない気持ちも分からないでもないのだけれど・・・)

そもそもコロナの前からこの国は、この世界は悪い時代に入っていると言えないだろうか?

アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮・・・そして日本・・・正直、この時代によくもこれだけ酷いリーダーが上についているものだと思わざるを得ない(アメリカは未だ混乱が続くもののようやく混乱に一応の終止符が打たれそうだが・・・それにしてもドナルド・トランプ氏があそこまでみっともない人物だとは思わなかった・・・。腐ってもクリスチャンを公言しているのだから尚更・・・毎日驚愕している・・・心の底から残念でならない・・・)

一体何をやっているんだろうな、人類、と。

その一方でこの危機において素晴らしいリーダーもいる。

ドイツのメルケル首相みたいな人。

そしてリーダーだけでなく、どんな立場にいても、正しく自分のやるべき事を理解して動いている大勢の市井の人達。

これこそが希望だと思う。そしてこのような危機には、正しく立ち向かえる代表者を選ぶ事は大事だと改めて感じている。

それにしても、コロナウィルスは人間の様々なものを炙り出してくれた。

結局の所、コロナウィルスが悪いというよりも、コロナによって人間の本質や今まで溜まっていた歪みが明確に可視化されただけのように思う。

先送りにしていた問題を今やれ、とつきつけられているような感じがする・・・

コロナウィルスの存在は、何を私達に迫っているのか。それを正しく見極め変化していく必要があるのだと感じる。逆に、正しく見極められなければ、より混沌とした世界になってしまうだろう。

危機に対してリーダー達がどのような言動を取るのか、という可視化もされた。

そして、自分がいかにちっぽけな人間かという事も。。。

他山の石としつつ、本当の希望を持って生きていける社会を作りたいと願う。

2020年10月4日日曜日

”パンケーキおじさん”の素顔と本質

安倍内閣が退陣し、菅内閣になって半月が経った。

安倍元首相は、自身の健康上の理由により再度の退陣をする事となった。

当初は当然の事ながら、療養にしばらく専念するものと思われていたが、僅か1ヶ月弱で”再始動”し始めたようだ。

難病という割には、診断書は公表されていない。薬が効いているというが、薬が利く事自体は良い事とはいえ、難病が重症化して退陣したというのに、難病がそんなに都合よく簡単にコントロールできるようになるものだろうか。

また、元気になったのなら数々の疑惑についての説明責任を、改めてきちんと果たしてもらいたいが、そのような考えは今の所一切感じられない。改めてこの「責任の取り方」というものに疑問を感じざるを得ない。逃げ切りで済ませる政治家がこの国にはとても多い。これでいいのだろうか。

さて、安倍内閣に代わって、安倍さんの大嫌いだった石破さんを姑息な手段で排除できる方法を使ったりしながら菅内閣が誕生しました。(「かんないかく」ではありません)

パンケーキおじさんだとかで持ち上げる市民もメディアも多いようですが、半月も経たないうちに、結構なお手前を披露してくれましたね。

下記は、菅内閣が行なった日本学術会議の任命拒否問題を受けて、日本学術会議の会員の方が書いた記事ですが、現内閣の本質に踏み込まれていて、なるほどなーと思いました。

<日本学術会議のこと>

https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2020/10/scj-issue.html?fbclid=IwAR3mmHJopnRiZWwM5k4DN_jDerPuGI4N6YETkeMjIChSEUHFV6gIbE6lalI

改めて、彼の本当の素顔と本質を私たちは見極めていかないとまずいのではないでしょうか。

パンケーキ好きに悪い人がいないとでも?ご冗談を。

パンケーキになど騙されませんよ、菅総理。

2020年8月29日土曜日

あのお方の辞任会見に思うこと

昨日夕方、安倍首相の辞任の発表が行なわれた。

ここ1週間ほどの動きでもしやという話もあったが、これまでの経緯を見てきて、そうそう簡単に辞めることはないだろうという認識でいたのだが、仕事が終わってからスマホのニュースに目をやると辞任会見、とあった。

そうか、やめるんだ、というだけで、特別何も感情は沸かなかった。

私の人生において、やるべき事は何も変わらないからだ。
総理大臣が誰であれ、自分のやるべき事を、淡々とやる事をやるだけだ。

ここしばらく考えてきたことだが、改めてそう思った。

彼について様々な問題意識を持っていた私ではあるが、そのような感情であった。

体調不良は事実なのだろうし、それはお大事になさって下さい、としか言えない。

彼のやって来たことの評価と今後の事を、改めてじっくり考える機会にはなるのかもしれない。

今はゆっくり休養して頂くことが先決だと思うが、体調が落ち着いたら、任期中にあった様々な問題について、取るべき責任があるのならば、しっかりと責任を取って頂きたいと一有権者として思っている。

ただ、LINEスタンプで「安倍さんおつかれ様スタンプ」の特集がまるで図ったかのように配信された事や、ニュースがそれ一色となり、彼の起こして来た様々な問題点を指摘する声を封殺していくかのような空気、まるで労うのが当たり前であり、それをしない事は非国民とまでいうような人が現れた事については、心底不気味に感じられた。

勿論、体調が芳しくない中で頑張ってきたことを否定するつもりもなく、それはそれで「おつかれ様でした」という事ではあるのだけれど、それをして当たり前という雰囲気を意図的に作っていくこの流れには違和感を持たざるを得ない。

彼のことをどう評価するかは人それぞれ自由であり、人柄の評価やどれだけ頑張ってきたか、が重要なのではなくて、それらの中身こそが重要で、有権者に選ばれた者の立場とは、そういうものだろう。

日本人は判官贔屓だといわれる。私自身そのような所もあるが、加えて多数派の人が自民贔屓であり、保守思想贔屓だと思っている。

今の日本人は結構、流れてくる情報を少しかじっただけでイメージで物事を捉える人が多いのではないだろうか。。そして、結局、多くの人が自民贔屓だと感じる。それに気付いていない人も多そうだが。コロナ禍の状況でよりそれは加速しているように感じる。

安倍さんの人柄は多くの人に受け入れられていたのだろうし、それを否定するつもりもないが、評価していない事を評価していない、という事もまた否定されるべきではない。

何も日本に限った事ではないが・・・

そして、野党や安倍首相を支持しない、いわゆるリベラル陣営に対するいつも批判ばかり、というレッテル貼りも酷いものだ。野党が失言してはその度に野党をこき下ろし、リベラルの奴らはこれだからくそだとか、さも分かったかのように誇らしげにこき下ろす雰囲気も大嫌いだ。

確かに、リベラル陣営にはがっかりする事も失望する事もあるが、全ての人がそうではなく、目立つ人を叩いて全体を分かったような気になっているのはいかがなものだろうか?
表に出てこなくとも誠実な人は沢山いるのに。。。と、それこそ唇をかみ締めるような思いだ。

そういう状況に悲観的になる、というのがここしばらく続くのだろうな。

そんな事を思った週末だった。

ここ1年位、政治に絡むような事に関わるのは正直うんざりしているので
自分の夢とか好きな事だけやって暮らしたい気持ちも山々だけれど。

少し時間を取って、民主主義ってなんだってことや政治ってなんだ、って事を改めて考えてみようと思っている。


2020年8月23日日曜日

頼れるのは結局身内だけか?

この所、最近感じる事だが、教会で、神の家族とか、教会の共同体を大事に、とか常日頃から言っている割には実際頼れる事が殆どない、という件について。

何だかんだ、頼れるのは身内だけだなと実感している。

というか、実際頼ろうとしても、体調悪いとか、忙しいとか、人をこき使うなとかいう横槍?を入れてくる人がいて、結局頼れない、という矛盾。

まあ、こちらも殆ど何も出来ていない訳で、それはお互い様なのかもしれないが、タダ働きをさせている訳ではなく、御礼も毎回する訳で、頼む方もそれなりに気は使っているのだけどな。。

結局世の中、金で解決、そうでなきゃ、身内って事かなと思う。

収入は確かに最低ライン生活できる位はあるし、今の仕事場には恵まれているけど、仕事場に恵まれているからこそ何とかなっているレベルなんであって、全然余裕綽々なんかじゃないんだけどね。。

しかし、頼れない結果、身内に身を削らせるのを見てて(まあそうなる事を分かってないのだろうが)、何とも思わないんだからなあ…

やれやれ。

まあ、基本は家族で助け合え、って事なんだろね。それじゃあ、他の宗教や世間一般と対して変わらない気もするよ。祈ってくれるのは有難いが、はっきり言ってそれだけですか?という感じはしてしまうよね。実際。

で実際、牧師夫妻も親の協力あってこそやっていっているのを見ると、”共同体”の意味って何なんだろうなあ、と考えてしまう。

まあ、これは日本人ならではの、遠慮して人にものを頼めない性質、あるいは自分の問題は原則自分でやる、という責任感?というのか義務感からきている側面もある気がするけれど。他の国のクリスチャンはまた違う形態なんだろうか。

人生の意味が労苦に対する忍耐にあるのだというのなら、まあ、そういうもんなんですかねえ、という他ないが。実際、引越しも好きでした訳じゃないのにね。

でも結局、そういう人達のいる場所に心のより所を求めている訳だから、なんだかDVの構造みたいに思えなくもないな、と思う、今日この頃。

2020年8月16日日曜日

日韓の歴史認識の差異について

この記事を最初に書いてから、もう1年も経ってしまったようだ。

当時、この記事を出すのには勇気が要った。私自身、まだまだ勉強不足で偉そうな事を言えないのではないだろうか、とか、そもそも紹介したサイトの人達が、特定の考えを持つ人達に攻撃されるのではないかとの懸念もあったからだ。

だから、結局出せずに下書きのまま残していた。

しかしながら、コロナ禍の中で更に加速度を増している今の惨状を見るにつけ、最早どう思われるかを気にしている余裕はない、と強く感じている。

そもそも、殆ど足跡もつかないこんなちっぽけなブログが何の役に立つか分からないが、
それでも・・・たった1人でもいいから、この記事を読んで、誰かが何かを感じてくれたなら、と思いました。

以下、去年の8/18に書いたものを公開致します。

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ここのところの日韓政府の応酬のやり取りには、心を痛めている。

まず、前提として、何が問題の本質かを整理できていない人が多いように思う。
視点や捉え方がごっちゃになっている人が多いし、
メディアも取り上げ方が恣意的であり、どうも「反日ムード」を自ら煽っているかのようだ。

もっと冷静に、事実を整理して伝えてほしいと、強く、感じる。

そもそもの出発点は、どこにあるのか。
つまるところ、私は歴史認識の違いにあると考える。

もう一つは、戦後補償のあり方についての認識が違うことだ。

日本に関して言うならば、私の認識は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した辺りから、
日本の上層部の中に、朝鮮の人達を、ひいてはアジアの人達を下にみる人達が現れて、その影響が未だに続いているという認識だ。そして近年ではそういう考え方が一定の力を持ってしまい、少なからぬ人達に影響を与え続けている。

それこそが問題の根本だと思う。意識してない人も多いだろうが。。

無論、そうは見ていない日本人も多いことは知っている。

問題は、政府の人間や発言力のある人間に、そういうゆがんだ認識の人が多いことだ。
特に現首相はいろんな意味で問題がありすぎる。

かつては、豊臣秀吉、福沢諭吉、大隈重信、そして残念な事に新渡戸稲造もその枠組みに入っている。

そして、もう一つは、教育の在り方。

私の学生時代がそうだったが、歴史の授業では、昭和史以降はほぼ時間の都合でスルーされる。
だから、太平洋戦争で日本がどんな事をアジアの国にやってしまったか、という事はほぼ教えられない。だから、後付でネットで知った歪んだ情報を元に、日本は悪くないのに、、、という被害者意識が植え付けられていく。

ネットの世界は、本当に幾らでも操作が可能なので、気をつけた方がいい。

日本はアジアを開放する為に、大東亜共栄圏の実現の為、あの戦争をやったのだ、と戦争の意義を肯定する人、あの戦争は避け様が無かった、と肯定する人達がいる(戦争に参加した当事者でもそのように言われる方もいる)。そして、慰安婦はあったけど強制ではなかったし、お金も沢山もらっていた、今になって、持ち出すのはせびりたいだけだ、とか韓国政府のプロパガンダに利用されているとか。

その人達には、韓国が近年まで軍事政権だった事から、そのような告発も許されなかった事、という背景が抜けている。勿論韓国の風習による背景等もあるが。。

大変に残念ながら、あの戦争の実態はやはり侵略戦争であった、というのが、私が認識する太平洋戦争の実態だ。国連脱退も、真珠湾攻撃も、避け様もあったと思う。

人間に完璧な人が1人もいないように、完璧な国など、一つもありえない。

いいことも、わるいことも、ありのままを受け止めることが大事な事ではないだろうか。

そしてもっと大事なことは、国は、イコール自分ではないということ。

どうも日本人は、自分と国を、一体化して考える傾向が強いように見える。
一体化してしまっているから、自身の国の闇の部分を暴かれると、自分の闇を暴かれた、攻撃されたように、感じているのではないだろうか。

この事実をどう継承していくのか、
この事実を、消したい、否定したい人達がいる。なかったことにして水に流したい人がいる。あるいはなんとかして正当化したい、仕方がなかったのだと思いたい人達がいる。

あるいは過去にあった事なのだからもういいじゃないかとか、他の国だって同じように酷いことをしていたのだから、どっちもどっちだという論調も最近ではよく見られる。

そういう人達が多数になってしまっている国に今生きている。辛い。哀しい。なぜ受け止められないのだろうか。
そんな余裕さえ、無くなってしまった人が多いという事だろうか。

でも歴史の生き証人である当事者達は、辛くとも忘れないでほしいと、恥を忍んで、覚悟をして、証言してくれた。
その勇気を、覚悟を、受け止めたい。

そしてもう二度とこのような悲劇が起こらないように、何ができるのか、考えていきたいのです。。。

核兵器の悲劇もそう。。。アメリカを憎んでもいい事はないし、アメリカ人を憎みたくはない。
しかし、彼らのやったことを、アメリカのやった事を、忘れはしない。

私達は双方に、被害者でもあり、加害者でもある。

傷を負った者同士、このような悲劇を過ちを繰り返さないために、
仮に止めきれない事があったとしても。わざわざ同じ過ちを繰り返したいとは、誰も思うまい。

だから、記憶に、刻むのです。


以下は、事実関係について参考になるサイトです。

参考書籍も沢山出ているけれども、一般のメディアや学校では殆ど取り上げられず、
日本は正しい!と主張する本や情報ばかりが多数を占めています。。。

ドイツのようにしっかり向き合わなければ、またこの国は同じ轍を踏んでしまう、そんな危機感があります。

<慰安婦問題について>
Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任
http://fightforjustice.info/?page_id=2

<徴用工問題について>

「徴用工判決」で報じられない「不都合な真実」 山本晴太 弁護士
2018年11月23日 徴用工判決|日韓請求権協定
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018112000004.html

<戦後の補償問題について>

法律事務所のアーカイブ
http://justice.skr.jp/

こちらは、今までの戦後補償についての資料がほぼ網羅されていると知人より、情報を頂きました。

まずは過去にどういう出来事があったのかをなるべくフラットに見て、その上で何がこの問題を複雑にしているのか、を考える必要があると思います。

色々見てきた中で、決して韓国側に問題がないとは私は思わないけれど、簡単に、相手に反日レッテル、あるいは親日レッテルを貼る事について、私は強い違和感を覚えるし、そのような発想では、何も生まれないと思っています。

たった一人でもいい、これを見た人が何かを感じて、考えるきっかけになればと、心から願っています。

2020年8月10日月曜日

住まう、という事についての雑感

最近、引越しをした。

きっかけは住んでいたマンションでの音によるストレスの限界である。

だが、実際に引っ越してみると何のことはない、頑丈だと聞いていたマンションだったが、こちらの方が余程音が気になってしまう事に気付いてしまい、愕然としてしまった。

考えてみれば以前のマンションは角部屋だったし、部屋数が少なかった。

だから気付かなかったのだが、今の部屋は隣と隣に挟まれていて、尚かつ部屋数が多い。

下からはさすがにあまり聞こえて来ないが、上、斜め上、左右からと常に音に晒される。(そして、部屋の空気が循環しにくく湿気が篭りやすい)

しかも、部屋数が多いから、朝はあちこちから窓の開け閉めは聞こえるし、掃除機をかける音は仕方ないにしても、それ以外の音さえも結構聞こえてくることへの衝撃。。というか、部屋の備え付けの食器棚の開け閉めをするだけで音が聞こえているとは???

食器や鍋をコンと置くこと、レンジや冷蔵庫の開け閉め音も少しでも力を入れてしまうと聞こえているようだし、これじゃ料理も怖くて迂闊に出来やしない・・・一番大きいのは玄関の音で、結構な衝撃音だ。あとはお風呂場の蛇口だが、蛇口も力の入れ方を間違えるとゴゴン!と気持ちの良い位の音が響いてくる。

これがSRCと呼ばれる、壁もコンクリのマンションの現状なのか?と思えてくる。

そして、以前の部屋の方がむしろまだマシだったのかもしれないとさえ思うようになった。少なくとも前のマンションは、上の住人の騒音や嫌がらせまがいのような行為はあったものの、隣と上の音さえ我慢すれば済んでいたのだ。(とはいえ、話し声が結構聞こえてしまう事はストレスだったが・・・正直今の部屋も声の聞こえ具合も大して変わらないように思える)

ただ、以前のマンションは住人同士の交流が全くなく、上の住人に対する不信感が募りすぎて憎悪の感情を抱く程になってしまい、かえって相当な自己嫌悪に陥ってしまった事もあったので、引越しを決意した。

前回の失敗に懲りて、今回は近所付き合いのそれなりにありそうなマンションを選び、上下左右にきっちり挨拶をした。その際お隣のご夫妻にこのマンションは静かなのが気にいって選んだのよ、音?まーったく気にならないから大丈夫よ、と親切に仰って下さり、ほっとしていたのだけれど・・・。正直、全然聞こえてますやん・・・としか思えない毎日です。

それはそれとして前回の部屋はPCのタイプ音が隣と何故か上!に聞こえていたようだったので、本当にきつかったが、今の部屋はさすがに聞こえていない(多分・・・)ようなので、それだけは心底ほっとしている(マジで聞こえないでいてくれ・・・じゃないと在宅も出来ない・・・)

そしてつくづく感じていること。

集合住宅ってやつは、これがスタンダードなんでしょうか??という事。

確かに私は人よりも過敏な所がある(特性上気が散りやすく、人と長時間一緒にいるのが苦痛)し、1人静かな場所にいる事を好む傾向があるから、それもあるかもしれない。

そして長らく戸建で暮らしてきたせいもあるだろう。

しかしそれを抜きにしても、料理するにも掃除や片付けするにしても、オーディオ鳴らすにしてもこんなに気を使うっていうのは、そもそもが安心して暮らすはずの住まい、という所から、何か根本的に違っているのではないか?と思えてならない。

そして一軒家、戸建を選ぶ人の気持ちが今、本当によく分かるのだ。

別に大声で叫んだり暴れまわりたい訳じゃない。

ただ、普通に電話で話したり音楽を聴いたりしたい。普通にミシンがけしたい、普通に料理したり家事を気兼ねなくやりたい。気兼ねなく風呂に入りトイレに行きたい。ただ、それだけなのだが・・・

集合住宅とは音は多少なりとも聞こえるものだ、と言われたらそれまでなのだが、自分の音が聞こえてしまっていると分かると、私の場合はもう駄目なのだ。そして、それが過敏すぎる、気にしすぎだと言われたらやはりそれまでなのだが、私が驚くのは、多くの人がこの環境下を受け入れて生活しているという事だ。

もっと予算を上げて防音性の高いマンション等に住む選択肢もあるにはあるが、限られた予算の中ではこれで我慢するしかない事を考えると、集合住宅が通常レベルでこういうものだとするならば、私はもうこれから二度と集合住宅を選ぶことはないだろう。

勿論、世界にはもっとこんなもんじゃないような生活環境、住まいさえない人も大勢いる、特に今のコロナ禍の中では尚更である。それに比べたら私は余程恵まれているだろう。

ただ、私のような他人が壁を挟んですぐ隣にいて音が聞こえてしまう事がストレスになってしまう人、過敏な人もいるだろう。

今回はいい勉強にはなったと思うと同時に、人間らしく安心して暮らせる住まいのあり方というものを、もっと考える必要があるのではないかと感じている。住居にお金がかかりすぎることも含めて。

人類の為というと大袈裟だが、真面目にそう考えてしまう。

どんな人であっても安心して暮らせる住まいがもっと増えることを、心から願っている。

2020年1月14日火曜日

闇は光に打ち勝たなかった

という聖書の箇所を信じて、暗闇の中でも、絶望の中でも、声をあげる姿に心を打たれる。

2019年5月1日。元号だ天皇交代だと、何の疑問も持たずに多くの日本人が沸き立つ中。

ある田舎町で、1人、絶望的な気持ちになっていた私に、ささったニュース。

この日本で、この時代に、クリスチャンとして、声を上げてくれて、ありがとう。。

即位巡る儀式「政教分離に違反」 キリスト教団体が会見
https://www.asahi.com/articles/ASM4Z3CYDM4ZUTIL008.html

二度とあの時代を、同じ過ちを、繰り返さない。

大袈裟だと、大抵の人は言うかもしれない。でも私は、この空気に、多くの人の認識の中に紛れ込む感覚の中に、危ういものを感じている。

2001年の同時多発テロの後、小泉首相は、アメリカの対テロ戦争に賛同して自衛隊を送った。あの時あたりから、戦争を経験する世代の人達が戦前の空気に似てきていると語り始めるのを聞いた。

それは過去からの、そして今も生きている戦争の生き証人からの警鐘。

そして、一クリスチャンからの、ささやかなエール。

政教分離はしっかりせんと、おかしくなりまっせ!