2021年8月28日土曜日

あの時、なぜ私は。。

少し前に話題になっていたけれど見れていなかった、

「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記(映画ver.)」を見てきた。

最初の入りから、あれ、と思った。菜の花さんがバイトしていた料理店。。

引き取る会のスタディツアーの時にウシさんに連れて行ってもらったあのお店によく似ていた。那覇市で沖縄の懐石料理屋といえば、そんなに数は多くないし、多分そうなのだろう。

菜の花さんの顔立ちは、正面から見るとそんなでもないけど、後ろから見た時の形が私と似ているなあ、と思って見ていた。

彼女の真面目で誠実な人柄、繊細さやセンスは私とは全然違うだろうけれど、彼女の歩んできた道のりや考え方のベースにあるものは、多分私と似ている所があると感じた。

珊瑚舎スコーレは、正に日本の(というよりも沖縄の)フォルケホイスコーレと呼ぶにふさわしいものだし、私の人生がもし、もう一度やり直せるのなら、私は彼女のような経験がしたかった。

意外だった事は、菜の花さんが沖縄にいた3年間でずっと問い続けていたものに対する、答えだった。映画を通して、日本人の沖縄に対する無意識の差別について、菜の花さん自身の言葉から度々感じ取ることができるのだが、パンフレットの冒頭に書かれていた、菜の花さんからのメッセージに、端的に極めてストレートにその事が書いてあった。

「自分は誰なのか。どれが正しいことなのか。沖縄で生活すればするほど揺らいでいった。わかっていたはずのことが、どんどんわからなくなっていった。しばらくの間私は、沖縄に行って沖縄で起こっている問題を解決したい、何か力になりたい、と思っていた。だけど、それは間違っていた。なぜ変わらない?なぜ無視される?なぜ、なぜ、そう問うていたら、自分にぶつかった。私は誰だ。」

彼女は、スコーレで沖縄の文化や言葉を学びながら、沖縄戦の歴史を本ではなく実際に経験した人と共に学び、直接話を聞き、高江や辺野古で出会った人達、、それは条件付き賛成派の人も含めてだ、、から話を聞いた。そして、それと同時進行で、沖縄で今も毎日起きている現実を、目の前で何度も突きつけられる経験をした。それは本土にいると見えにくい現実が目の前で日々起きているという事実だった。

沖縄と合わせて、もう一つの大きな伏線として描かれる重要なものがある。

それは、彼女の出身地である石川県にも、かつて米軍の施設があったという事。その土地の名前を聞いて、私は思わず声をあげそうになった。

内灘。そう、戦後の日本で、かつて米軍基地闘争に火をつけるきっかけとなった、あの内灘闘争があった場所は石川県なのだ。私は、菜の花さんが沖縄に来る事になったのには、何か運命付けられたものがあるようにも感じられた。

そして、内灘闘争にかつて関わった人達からも、彼女は話を聞いた。

内灘闘争での合言葉は「金は一年、土地は万年」という言葉だった。

内灘闘争でたたかった人達も、沖縄で声をあげ座り込んでいる人達も、特に猟師さんの思いは、、皆同じだ。この海をこの土地を返してほしい、と。安心して暮らせる環境を返してほしいと。

ただ、それだけなのに。

そして彼女は本土から無くなった米軍基地が、本土復帰まもなくの沖縄に移転されていった事も知る。

その中で彼女は葛藤し、そして答えを見つける。

「私は誰なのか、ようやくわかった。自分が嫌なものを他人に押し付け続けている一人だった。」

問題の根源は沖縄にはなかった、と彼女は気付いたのだ。

そう、自分自身の中にあったという事に。

引き取る会の考えも、菜の花さんの考えも、自分の中にある差別と向き合う、という根っこは同じだと思った。

でも、彼女は沖縄の基地を本土に引き取る、という活動を知っているだろうか。

知っていたとして、彼女はこれについてどう思うだろうか。と気になった。

映画を見終わった後、会場で偶然知人と会い、引き取る会の活動の話をしてみたが、あまり理解されていないようだった。。んー、映画で何を感じたのだろうか。。

日本政府の酷さに共感しただけ?

と思ってしまった。

そして同時に、私も自分を、自分の足元を変えなければいけないという事は分かっていて、それが出来ていないことを改めて思った。

それと、彼女の生き方に私は憧れるが、彼女の真似は到底出来ないという事も。

だって、スコーレで彼女は同級生と普通に接している、私にはそれが出来ない。

街頭で県民投票の手伝いで声かけしていたような事が到底無理。私はどうしたって、人との間に分かり合えない、通じ合えない、壁があるのだ。

そして他の人に感じられることが、理解できることが、私には感じられないし理解できない。海外に行った時も、全部そうだった。

私はずっと、ずっと、永遠にそうなのかもしれない。。。通じ合えないと変えられないのに。。。

でも、前みたいにもういちいち悲しんでいるのは時間の無駄だよね。

時間は有限、いつまで生きていられるかも分からないのだし。

とは思っても、結局の所、リスクを負った行動ができずにいる自分が、心底情けなくもなる。本当はこんな文章書いてないでやるべきことが、沢山あるはずなのだけれど。

映画を見て、菜の花さんが丁度沖縄にいた頃、時を同じくして、私もずっと沖縄の事を追い続けていた事を思い出していた。改めて映画を見る中で、これだけの事が沖縄で起きていた事に改めて驚きを禁じえなかった。そしてその度に「本土」の人間から発せられる冷たい、そして醜い言葉の数々を思った、、政治家が堂々と沖縄を差別しているのに、国民が差別しないわけがない。。。と思った。

そして、2016年に米軍属による女性殺害事件が起きた時の、玉城愛さんの姿を見て、あのスピーチを思い出していた。「日本本土にお住まいのみなさん、、第二の加害者はあなたたちです。しっかり沖縄と向き合って頂けませんか。」この事があり、そして、その後に、国と県の裁判で沖縄県が敗訴したことを受けて、私のスイッチが切り替わったのだ。

あの時、なぜ私は、引き取り運動に関わろうと動いたのか。その決定打は2016年に起きたこの2つのことが大きかったと思った。

憲法9条を世界遺産に、に感動して単純明快にそう考えてきた私だけれど。

映画の最後に、菜の花さんがスコーレのみんなと歌いだした曲にも、え?となった。

コシシケレリ・アフリカだ。

そう、農村塾で教えてもらった大切な曲。

人種差別に対してアフリカの人達が声をあげたときに歌った歌だ。

アフリカを、彼女は沖縄に、置き換えて歌った。

「神よ、沖縄に祝福を。」と。

私もいつか、彼女のようになれるのだろうか。失った時間は取り戻せないけれど。。。

旅して暮らしたいなんていいながら、沖縄への責任を果たせるだろうか。。。

翁長さんの姿につい涙がこぼれる。


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