今年は特に世界各地で猛暑で、もはや私達のライフスタイルを変えないとまずいんじゃね、レベルまできてる。危機感を持つ人は、決して少なくない。
けど一般的なクリスチャンは、人権、人道問題に比べると、これらをあまり気にしてるようには、見えない。
私は自分で大した事何もしてないから言える義理もないのだろうけど、元々環境に関心がある身として、クリスチャンが環境問題に関心がないって事が、どうも引っかかる。
関心があるクリスチャンも一部にはいるけど、やはりそれは少数派に見える。
だからかな、いつもモヤモヤするのって。
それと、うちの教会は、食前のお祈りの時に、神様と、料理を作って下さった方とに感謝する、といつも言う台詞の中に、
貴重な命を捧げてくれた動物達、植物達に対する感謝、がない。
そう、自分も感謝を忘れがちだから、人の事は言えないけど。。
人間の命を繋ぐ為に、他の命を頂いて生きている、その事についての感謝、がクリスチャンにはないのかなぁって。。
神様は人間を特別な存在として作られたから、その特別な存在に対して他の動物や植物が命を捧げるのは、当然て考え方なのかな。
環境問題含め、命に対するその視点の違いにもモヤモヤする。
あとつまる所、世界中の人々に福音を伝える=宣教が神様の命令で。
それに従うのが、人間の幸せだという事だそうなのですが。
それじゃ、やっぱり「この道しかない」になるので自由じゃない気がしてしまう。
自由に生きる事を許さない考えは、やはり息苦しい。
政治にも社会運動にも迂闊に関われないし、自分の自由には行き来も出来ないし。
無論、環境問題を考えたら人間や物が自由に行き来する事がいいとは言えない訳だけど。
でも資本主義は認めているから、自由貿易肯定な訳だ。すると、そもそもがエコとは言いがたい。(アーミッシュはその点、徹底しているのですごい)
そしてクリスチャンは、宣教のためならどこへでも行くから、やはりエコとは言えない。。
つまり、クリスチャンとエコは最初から両立しない訳ですね。
そこも引っかかるんですよね。
地球が滅びる前提で、エネルギー消費し続けてる存在なのかな?
と、思ったりします。
いや、他の人間も基本的にはそれは同じなんだけれども。
つまり私の今抱えているジレンマは、
自由と尊厳を求めて生きる人間という存在が、環境とバランスを取ることは難しいのか。
そして、何よりも難しいのが、欲望、孤独のコントロール、人間関係であり、価値観や考え方の違い、資源や領土にまつわる争い、これらの余計な問題を抱えてしまうことだ。
あと、日本人の危機感のなさ、にもモヤモヤすることも、しばしばある。
たとえば、ニホンウナギが絶滅危惧種になっているのは、前からニュースなどでもしばしば報じられているところだが、ウナギを食べるのを控えよう、とはならない。
ニホンウナギがダメなら、他の地域からウナギの幼魚を連れてきて、養殖すればいい、という発想。
土用の丑の日、を風習だから?と続けている。。。ノルウェーだったか、同じウナギ好きの国でも、ウナギ風味の代替品に変えて、それでみんな食べてるというのを見た。日本でも、どうしてそういうことを出来ないのだろうか?
職場でも、丑の日だしこどもたち好きだから、奮発しちゃった、と嬉しそうに言うお母さん達・・・
うーん。。。その裏で、色々な人達が苦労している事とか、ウナギがもう絶滅寸前であることとか、って考えないのかなあ、って。ニュースで言ってるのになあ、って。
悪気はないんだろうけど、悲しくなる。
そういうのって、無意識なんだよね。気付けば、変わってくれるとは思うけど。
日本は自然が豊かで、森も水も豊かなところなのに、なぜか、そういう観点が抜けちゃってる人も多いんだよね。そこが複雑なんだ。
報道の仕方もだし、そもそも、そういうものを管理しているはずの、水産庁にかなり問題ありだと、以前から思っている。
こういう時、
「ウナギは私も好きだけど、今、絶滅しそうになってるから、それもちょっと心配だよね。ノルウェーでは代替品がウナギの代わりに流通してるんだって!」
とかさらっといえたら、いいのにな。
でもそういう事を言ったら、引かれるのかな、、そう考えちゃうと言えないんだ。
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